「私は今」イイミミ特集 こちら社会部
■あの人を思い…
弟のような子に
震災で亡くなった弟が生きていれば今年、成人式なんです。私と母は全壊の家から助け出されましたが、弟は途中で力尽きて…。埋まってる間も「先にお母さんとお姉ちゃん助けたって」言うて。母子家庭で男の子は一人だけで、九州に住む祖母にまで「将来ぼくが面倒見たるから」って。生きてたらどんな青年になってたかと思うと…。震災後、結婚しました。もし男の子が生まれたら、弟のような子に育てたいです。(神戸・須磨、主婦、24)
娘に会いに
あの日、東灘区の自宅で娘が亡くなりました。震災の前年に息子が結婚し、主人はすでに亡くなってましたから「きょうだいともいなくなったらさびしいから、もう少し一緒にいてあげるね」って言ってくれた娘なんです。今日も、娘のお友達が家にお参りに来てくれました。毎日、娘が生きていたときと同じように話しかけているんです。それで、今まで頑張ってこられたんです。(涙声で)娘に会いにいきます。娘の名前が刻まれた「慰霊と復興のモニュメント」へ。(川西、主婦、60)
心に穴あいたまま
あれから5年。毎日を精いっぱい生きていますが、私たち家族には元に戻せないことがあります。震災で4歳7カ月の長女を亡くしました。心に大きな穴があいたままで、何をしてもその穴を埋めることはできません。娘だけでなく多くの子どもたちが、夢や希望、未来を一瞬に閉ざされました。どうか未来あるみなさん、自分自身の命、人の命、命あるすべてのものを大切にしてください。(神戸・東灘、主婦、36)
この時期になると
中学生のころから仲良くしてくれた先輩を亡くしたんです。震災直前、「家に遊びにおいで」って誘われたのに、体調が悪くて断ったんです。そしたら壊れた自宅の下で亡くなってしまって。「遊びに行っていたら、助けられたかも」と思うと、生き残った罪悪感があって…。今もPTSDで病院に通っているんです。やっぱりこの時期はつらいです。(神戸・西、フリーター、女、21)
友達に支えられて
震災で、家と店がつぶれました。ちょうど夫は入院していた病院から自宅療養に変わったばかり。同居していたおじいちゃんも震災以来、調子悪うなって。結局、震災の年の暮れにおじいちゃん、1週間後には主人も亡くなってしもたんです。あっという間に一人っきりに。このまま死んでしまえたら、と思いました。でも、友達に支えられて元気に。念願だった四国八十八カ所巡りを2年かかって達成しました。今は、嫁いだ娘のところの孫の成長を見るのが楽しみです。(津名・津名、無職、女、70)
良縁でうれしくて
娘夫婦が家屋の下敷きになって亡くなり、孫二人が残されました。その姉の方が縁あって2月に結婚するんです。もううれしくてねえ。今年の正月、相手の人とあいさつに来てくれて。ほんとにすばらしい人で、私も気に入っています。苦労してきたことを思うと、幸せになってほしいと思うだけです。私はこのごろ、ひんぱんに娘の夢を見るんですよ。(神戸・垂水、無職、女、70)
少し吹っ切れました
あの時のことは忘れたことがありません。亡くなった妻を区民センターに運んで検視に立ち会って、その間に家が全焼して…。そやけど、最近は自分の足で立たなあかんと開き直りました。おととしは胸の手術もしたけど、去年から毎朝1時間の散歩を始めて、元気も出てきました。少し悟ったかなと思います。(神戸・須磨、無職、男、71)
人のつながり戻らへん
自宅が全壊して、障害者なんですぐに公団住宅に入れたんやけど、入居期限の1年が来たらどんなに頼んでも出ていけって。泣く泣く親の残してくれた土地を売って、中古の家を買ったんです。でも、被害がほとんどなかった場所やったから、近所の人が「何百万円も義援金もらって得したな」ってよそ者扱いするんですよ。見かけは復興しても、心のつながりはなかなか戻らへんのやね。(明石、無職、女、52)
平和戻った
地震の時は病気で入院してて、その後も1年ぐらい家に戻れなかったんです。4人の子供たちにはさびしい思いをさせたと思います。今年の正月は久しぶりに家族6人そろって写真を撮ったんです。実は震災直前の正月にも全員の写真を撮ってて比べたんやけど、私と夫は白髪に、子供たちは茶髪になってるって笑ったんですよ。夫のリストラとかいろんなことがあったけど、今年は久々に平和な正月でよかったわ。(加古・稲美、主婦、54)
■でも頑張ってます
独立5周年
36年間船乗りをやってたんやけど、震災後「他の仕事を探してくれ」言われましてなあ。ハローワークへ行ったけど仕事はないし。もう、自分で独立するしかないって、バーを始めたんですわ。包丁握るのも初めてやったけど、何とか5年もちました。6月には5周年のパーティーもやります。「よくぞ、つぶさずやってこれた」っていう気持ちと、常連さんへの感謝を込めて。(神戸・中央、飲食業、男、56歳)
ショックで病気に…
避難所で暮らしてから手足が震えるようになってねえ。パーキンソン病と診断されて。お医者さんは震災のショックで10年ぐらい発病が早まったって言うんです。娘の夫は震災後、心の病気になって仕事を続けられなくなるし、息子は事故で両足を骨折するし…。私は治る見込みはないけど、「もっと大変な人もいるんだから」って、今は頑張っているんです。(神戸・長田、無職、女、61)
がんが再発…
自宅が全壊、ようやく建て直したと思ったら、97年に肺がんを宣告されました。以前に患った乳がんは完治したと思っていたのに。「地震さえなければ、再発しなかったのでは」と思うと悲しくて。でも、5年長く生きただけでもよかったと思うようにして頑張っています。(神戸・長田、会社員、女、50歳)
■ありがとう
生きててよかった
震災の朝、夫が近所の人の救出に行ったあと、全壊した家で一人でいると、4歳の孫娘の元気な声が。玄関のわずかなすき間から、がれきを踏んで入ってきたんです。外に出ると、娘が泣きながら抱きついてきました。その孫も小学3年生。水泳や一輪車が上手になって、明るく育っています。生きててよかったなってしみじみと…。(神戸・須磨、自営、女、73)
縁切った母の世話を
中学の時に家を出ていって、親子の縁も切っていた母が、昨年9月に復興住宅で亡くなったんです。葬式が終わった後に連絡が来て線香をあげに行って、母の今のだんなさんに聞きました。仮設住宅のときからボランティアの人に良くしてもらって、幸せな晩年やったいうて。母が倒れたとき、引き取りを拒んだことがあって、ずっと気になっていたんです。直接は言われへんけど、母がお世話になったみなさん、本当にありがとう。(加古川、主婦、37)
淡路島に来て!
もう5年がたちましたねえ。全国のみなさんの支援のおかげで、わが淡路島も無事、復活しましたよ。3月からは淡路花博「ジャパンフローラ2000」もあるんです。あのとき助けてくれた人に来てほしくてねえ。淡路はこれだけ復興しましたよって伝えられるでしょう。(津名・五色、無職、男、86)
優しさをありがとう
震災後、ボランティアに参加させてもらったんやけど、被災者の方々の笑顔に逆に励まされ慰められることがしばしば。優しさを分け合って、充実した日々でした。その後、福祉の仕事をしています。(神戸・垂水、ヘルパー、女、57)
一人では生きられない
もう5年。時間がたつのは早いですね。自宅は全壊。2年半前に復興住宅に移れました。仮設では、車を持っている人が乗り合いで買い物に連れていってくれたり、近所の人がおかずを持ってきてくれたり、親切が数え切れないほどありました。そのころの人たちとは、今も年賀状のやりとりが続いています。(神戸・東灘、主婦、65)
ええこともあった
震災で妹が家の下敷きになって亡くなって、その後も体調を崩した母と3人の兄弟が亡くなりました。私も家は全壊するし、足にけがをするしで、大変な5年間やったけど、ええこともありました。白鴎大学の福岡教授と学生さんたちに、本当にお世話になって。西神南室谷第2仮設の元住民を代表して、お礼を言います。(神戸・長田、無職、女、51)
水の恩忘れません
震災後、近所の病院に全国から給水の車が来てて、好意で蛇口の1つを住民に開放してくれたんです。中国東北部で従軍して苦労した経験があるので、水のありがたさは身にしみています。全国からのご恩は忘れられません。(神戸・兵庫、無職、男、85)
生命を大切に
あの日、友人の一家5人と娘の小学校の校長先生が亡くなりました。私たちは高砂に避難し、大勢の人にお世話になりました。亡くなられた方の分まで、精いっぱい生きていこうと思っています。(神戸・灘、主婦、44)
■再建半ば
掛け合ったけど
納屋を改造して住んでいたんですが、本家ともども全壊。世帯主が本家の父になっていたので、義援金を1円ももらってない。市役所には最近まで掛け合っていて、仮設で頑張っていたけど、家内に「そないいわんと」といわれて復興住宅に入りました。仕事もなくなって、今も生活の立て直しができません。(明石、無職、男、59)
怒りも失せて
あの日、長田の火災で火が近くまで迫ってきたとき、50歳くらいの女の人が通りかかって「もっと燃えろ、燃えろ」って言ったんです。ムカっときてね。「あんたどこに住んでんねん」と聞いたら「もう、燃えてあるかいっ」。怒る気も失(う)せてね。うちも半壊したが、その人のことを思ったら…。5年たっても更地は多いし、復興なんて50年先やと思いますわ。(神戸・長田、無職、男、73)
公平に、平等に
4人家族無傷で助かったのに、自宅が類焼してすべて失いました。わずかな収入の差で自立支援金が下りず、再建を急いだために住宅取得控除も6年だけ。あとで建てた人は低利のうえ15年間の控除があるのに…。平等、公平ということを強く感じました。(神戸・東灘、主婦、55)
一回死んだつもりで
震災の日、主人と長女が亡くなりました。私は大けがをしながらも、崩れた家の中から昼ごろに助け出されたんです。奈良に避難したんですが、娘や夫の分も頑張らなと思い、何時間もかけて神戸に通い、震災後2カ月で、カラオケスナックを再開しました。まだ再建できない人たちからねたまれたことも。「ほんとのつらさは体験した人にしか分からないんだ」と思い知りました。そんな時の支えは、店のお客さんたちとのつながりでした。これからも前を向いて、一回死んだんやからと、頑張っていきます。(神戸・東灘、自営業、女、58)
<こだま>
震災5年、尽きぬ思い出
17日を前に「イイミミこちら社会部」を特設しました。日ごろのイイミミ子に代わって、社会部記者が応対しました。開設した4時間、電話は鳴りっ放しでした。あの日逝(い)った肉親の尽きぬ思い出、ままならぬ生活再建のしんどさ。話が1時間以上に及んだ人もあります。記者が絶句したこともたびたびでした。電話をいただいた方の一部しか紹介できないのが残念です。歳月とともに、まちは明るさを増していきます。でも一人ひとりの震災が終わることはありません。午前5時46分、街角のどこかで手を合わせます。