社説

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 米海兵隊普天間飛行場は沖縄県宜野湾市の中央にある。住宅が取り囲む、「世界一危険な米軍基地」だ。約480ヘクタールの敷地に約2800メートルの滑走路を備え、輸送機オスプレイなどが配備されている。

 まず基地ができ、後から周りに人が住んだのでは-との見方もある。だが、それは誤解だ。

 太平洋戦争末期の1945年4月に沖縄本島へ上陸した米軍は、本土攻撃に向け、もともと人が住んでいた土地に飛行場を造った。戻った住民はその周辺に住むしかなかった。

 沖縄の人々の土地は戦時中から米軍の手で強制接収され、75年間、軍用地として使われ続けてきた。その経緯をたどってみたい。

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 戦前、普天間飛行場のある場所は当時の村役場や学校が並ぶ村の中心だった。米空軍嘉手納基地(約2千ヘクタール)や他の飛行場、弾薬庫などがある場所にも暮らしがあった。そこにできた米軍専用施設の面積は現在、沖縄本島の約15%を占める。

 戦後、講和条約で占領が法的に終わると、引き続き沖縄を統治した米国民政府は53年に土地収用令を出す。賃料は払うが強制接収できるようにした。

 その後、暴力的な家屋立ち退きに反発し「島ぐるみ闘争」が広がる。住民たちは「金は一年土地は万年」の旗を立てて行進した。

 72年の本土復帰後は日本政府が米軍に住民の土地を提供するかたちになり、強制使用を認める公用地暫定使用法を制定した。同法が事実上失効した後は、駐留軍用地特別措置法を適用する。日米両政府が強制使用を合法的に継続できるよう、無理に体裁を整えてきたとしか見えない。

銃剣とブルドーザー

 沖縄北部にある伊江島は土地を奪われた場所の一つだ。住民の一人、阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さん(1903~2002年)の著書「米軍と農民」によると、米軍は1954年に住民の立ち退きを通告してきた。

 55年3月、突然、武装した米兵が来る。銃剣で住民を威嚇し、殴ったり縛ったりした。建物や家財はブルドーザーで倒し、焼き払う。サトウキビの畑も引きならした。

 住民は屈しなかった。演習地内の畑で未明の耕作を続け、座り込みや陳情、嘆願を繰り返した。米軍との根気比べのような運動の結果、島の6割以上を占めた軍用地の面積は3割ほどになったという。

 「なぜわしらの土地を強奪するというひどいことをするのか。これは戦争があるからである」と阿波根さんは言った。「わしらの土地を守る闘いは、戦争をやめさせ平和をつくることにつながる」。悲惨な沖縄戦を体験した人の重い言葉だ。

敗戦の重荷を背負う

 国が土地を収用するには地主の署名が必要だが、これを拒否された場合、かつては知事・市町村長が代理署名をすることになっていた。

 しかし米兵による少女暴行事件が起こった95年、当時の大田昌秀知事は代理署名を拒否した。県民の怒りが反基地のうねりとなったからだ。「象のオリ」と呼ばれた楚辺通信所などが不法占拠状態になると、国は自ら代理署名できるよう駐留軍用地特措法を改める。この強引さは「銃剣とブルドーザー」に等しい。

 米軍基地は汚染問題も起こしてきた。燃料流出がたびたび発生しているほか、劣化ウラン弾の使用や化学兵器の貯蔵が判明したり、ポリ塩化ビフェニール(PCB)やダイオキシンが検出されたりしている。

 今年5月にも、有害物質を含む泡消火剤が普天間飛行場から大量に流出した。しかし、米軍は日本側の立ち入りを一部しか認めていない。住民から取り上げた土地はどう扱ってもいいと考えているのではないか。

 沖縄は今も敗戦の重荷を背負っている。政府は名護市辺野古への移設計画と切り離し、普天間飛行場など日米で返還合意した施設の整理・縮小を急ぐべきだ。米軍用地の強制使用が続く限り、沖縄の、そして日本の戦後に終止符は打たれない。私たちも共に考え、声を上げ続けたい。

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