社説

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 先の大戦は判明しているだけでも全国に12万3511人の「戦争孤児」を生んだ。兵庫県は5970人。広島県に次いで2番目に多い。

 混乱期とはいえ、国は子どもたちの保護を後回しにした。街をさまよう孤児に社会は冷たかった。

 そんな中、民間組織を中心に救いの手を差し伸べる人々がいた。神戸市灘区の児童養護施設「愛神愛隣(あいしんあいりん)舎」もその一つ。日本で唯一、在日朝鮮人のための施設としてスタートし、今年で78年になる。

 戦争の記憶は遠くなった。しかし、守られるべき子どもが放置された「歴史」は過去のものだろうか。朝鮮人、日本人、中国人の孤児を分け隔てなく受け入れた愛神愛隣舎の歩みから考えたい。

    ◇

 94歳になった愛神愛隣舎の名誉理事、●末岩(ていまつがん)さんが好んで語る終戦直後のエピソードがある。

 大阪・梅田駅の構内に孤児がいると聞けば探しに行き、説得しては神戸の施設に連れてくる日々を送っていた。そのうち「人さらいの女が現れる」とのうわさが流れ、ある日、警察署に連行されてしまう。懸命に事情を説明すると、「行政がやらなあかん仕事を代わりにしてくれている」と警察官が感激し、パトカーで神戸まで送ってくれた。

 愛神愛隣舎は1942(昭和17)年、「六日信仰社・洋服病院」という看板を灘区内の民家に掲げたのが始まりだ。

差別され記録少なく

 日本が植民地統治した朝鮮半島からは、多くの人が労務者として、あるいは生活の糧を求め移り住んだ。キリスト教の布教に来た張徳出(ちょうとくしゅつ)牧師は在日朝鮮人児童の悲惨な状況に胸を痛め、神戸の信徒4人と養育施設を立ち上げる。衣服の仕立て直しを収入源にした。

 信徒の1人が在日コリアン2世で神戸出身の●さんだった。張牧師に共鳴して外資系企業のタイピストから保育士に転身し、孤児の命をつなぐために奔走した。神戸大空襲で施設が焼失したときは毛布で囲った小屋で子どもらと雨露をしのいだ。

 戦争孤児の多くは苦難を強いられた。児童福祉法が施行され、国の責任下で児童相談所などの保護体制がようやく整うのは、敗戦の3年後である。それまで孤児らは犯罪予備軍のように扱われたりもした。

 保護の遅れはその後の人生に影を落とす。差別された経験から誰にも打ち明けていない人もいる。

 戦争孤児の記録や体験談が少ないのはそうした経緯がある。心の叫びを聞き取り、向き合う努力をしなければ、苦しさは見えない。ましてや支援につなげることはできない。

 そんな教訓が読み取れないか。

苦境に立つ子は今も

 戦中、戦後の混乱期、愛神愛隣舎は国籍に関係なく孤児を受け入れた。命の危険にさらされる子どもを放っておけなかったからだ。養護児童は多いときで約60人に上った。

 ●さんがことあるごとに思い出す女児がいる。戦争を生き延びながら肺炎になり、「先生、先生」と自分を呼びながら腕の中で亡くなった。

 2010年まで22年間、●さんは施設長を務めた。現在は二女の曺徳善(そうとくぜん)さん(63)がその任に当たる。社会福祉法人となってからは、日本人の子どもを受け入れることが増えた。今は4歳から20歳までの31人が暮らしている。大半が親からの虐待被害者だ。

 児童虐待の事例は00年以降、急増した。社会全体は豊かになったが、貧困が背景にあるケースは多い。苦境はときに連鎖し、卒園生の子どもを預かったこともある。

 戦後75年になって、過酷な環境に置かれる子どもは後を絶たない。多くは声を上げられずにいる。「うちのような施設がなくなるのが究極の目標」と曺さんは話すが、その役割はますます重要になっている。

 社会が混迷に陥れば、弱い立場の子どもたちほど深刻な影響を受ける。大人は気づき、手を差し伸べているか。コロナ禍の今こそ、問い直す必要がある。

※●は「鄭」の異体字

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