社説

  • 印刷

 沖縄県はきょう、1972年の本土復帰から50年の節目を迎える。

 太平洋戦争末期、本土防衛の「捨て石」にされた沖縄は住民を巻き込んだ凄惨(せいさん)な戦場と化した。戦後は日本の施政権から切り離され、米軍の統治下に置かれる。基地のために住民の土地が強制接収され、太平洋の軍事的な「要石」となった。

 米軍機の墜落事故や米兵の犯罪が相次ぐ中、住民は「基地のない平和の島」を願い、日本国憲法下への復帰を切望した。ところが施政権返還から半世紀が過ぎても基地問題は解決せず、県民が期待した「本土並み」にはなお遠いと言うしかない。

 玉城デニー知事は節目に先立ち、普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設断念などを求める「建議書」を岸田文雄首相に手渡した。沖縄の民意に背を向けてはならない。

     ◇

 1429年に成立し、交易などで栄えた琉球王国は1872年、明治政府によって琉球藩とされ、7年後には沖縄県となった。この強制的な併合は「琉球処分」と呼ばれる。

 日本の一部となった「大和世(やまとゆー)」の時代に沖縄は近代化を図るものの、経済を黒糖生産に依存するあまり不況に苦しみ、ソテツで飢えをしのぐ「ソテツ地獄」の惨状に陥った。

 太平洋戦争の「戦世(いくさゆー)」を経て、1952年に日本が主権を回復する一方で、沖縄は米国施政権下の「アメリカ世(ゆー)」になった。基地建設を進める米軍に住民は「島ぐるみ闘争」で抵抗し、復帰運動を繰り広げた。

 しかし日米地位協定によって特権が保障されている米軍の存在は、復帰後も県民生活にのしかかる。

踏みにじられた思い  

 玉城知事が岸田首相に渡した文書は「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」だ。その原点となる「復帰措置に関する建議書」は返還前の71年11月、琉球政府の屋(や)良(ら)朝(ちょう)苗(びょう)主席が佐藤栄作首相に託した。

 屋良建議書は戦後の沖縄を「国民的十字架を一身にになって、国の敗戦の悲劇を象徴する姿」と捉えた。「基地や核兵器や毒ガス兵器に囲まれて生活してきました」とし「従来通りの基地の島としてではなく、基地のない平和の島としての復帰を強く望んでおります」と訴えた。

 具体的には、米軍基地の整理縮小のほか、地方自治権の確立、反戦平和の理念、基本的人権の確立、県民本位の経済開発などを骨格とする新生沖縄像を描いた。本土に復帰する以上、当然の要求であった。

 だが建議書を携えて上京した屋良氏はぼうぜんとなる。基地の維持を前提とする返還協定がその日、衆院特別委員会で強行採決されたのだ。「県民の気持ちと云(い)うのは全くへいり(弊履=破れた草履)の様にふみにじられるものだ」と屋良氏は日記につづった。憤りは無理もない。

 玉城知事は屋良建議書の理念を踏襲し、公募した県民の声も反映させて新たな建議書を取りまとめた。「平和の島」とする目標は「50年経過した現在においてもいまだ達成されていない」と指摘し、米軍基地問題の現状を「差別的」と表現して早期解決を迫った。政府は重く受け止めなければならない。

負担の代償ではなく  

 共同通信社が今春、沖縄県民を対象に実施した世論調査でも、復帰後の歩みに「満足していない」とする回答が55%で、基地負担が他の都道府県に比べて「不平等」と感じる人が83%に達した。描いた復帰の姿ではなかったのは明らかだ。

 新たな建議書では、辺野古移設断念のほか、日米地位協定の抜本的な見直し、県民本位の自立型経済の構築などを求めた。岸田首相は「思いを持って読ませていただく」と述べたが、玉城知事との会談は記者団に公開せず15分で終わった。県民の思いに応える覚悟は伝わってこない。

 今月、政府は今後10年間の沖縄振興基本方針を決定し、持続可能性のある「強い経済」を掲げた。観光以外の産業育成や、本土との所得格差の解消を図る実効性ある振興策が必要である。ただ、それは基地負担の代償であってはならない。自立した経済の実現には、米軍基地の返還と跡地の活用が欠かせない。

 政府は「辺野古移設が唯一の解決策」とする強権的な姿勢を改め、沖縄県と真摯(しんし)に対話すべきだ。その上で、基地問題解決への具体的な道筋を提示する責務がある。

 沖縄の地元紙は、辺野古での新基地建設の強行を「琉球処分」と重ねて論じている。本土でもその怒りを理解し、共有したい。沖縄だけが「アメリカ世」から抜け出しきれない不平等は決して許されない。

社説の最新
もっと見る
 

天気(5月25日)

  • 27℃
  • ---℃
  • 20%

  • 30℃
  • ---℃
  • 20%

  • 29℃
  • ---℃
  • 20%

  • 29℃
  • ---℃
  • 20%

お知らせ