ノーベル文学賞作家の大江健三郎さんが亡くなった。1950年代から数々の小説や評論を精力的に発表するとともに、戦後民主主義と平和主義に重きを置き、護憲や脱原発を訴えた。文学界にとどまらず、大きな精神的支柱の喪失である。
訃報は世界にも伝わり、フランス紙ルモンドは「戦後日本の知の歩みを希望と幻滅両面で体現した」と評し、ドイツの通信社は「日本の社会的良心のような存在だった」と悼んだ。間違いなく、戦後日本を代表する知識人の一人だった。
大江さんは東京大文学部仏文科在学中の57年に「奇妙な仕事」でデビューし、翌年「飼育」で芥川賞を受けた。23歳での受賞は当時の最年少だった。若い頃から作家としての才能が抜きんでていたのだろう。
67年には、安保闘争と幕末の一揆をモチーフにした「万延元年のフットボール」で谷崎潤一郎賞を受賞した。代表作の一つとなり、各国の評論家からも「これほど強烈に日本のイメージを伝えた戦後作家はほかにいない」などと称賛された。
家族との関係も重要な創作テーマとなった。大江さんの長男光さんは知的障害のある作曲家として知られる。光さんが生まれた翌年の64年に発表された「個人的な体験」は、脳に障害のある子どもを持つ父親が主人公だった。
大江さんは後の取材で「降りかかってきた運命から逃げないで、引き受け続けることを意味するアンガージュマン(主体的参加)だった」と語っている。覚悟を持った生き方は多くの人の共感を集めた。
特筆すべきは、常に時代と向き合い、社会問題にも積極的に発言し、行動を起こした点だ。
広島の被爆者や治療した医師らを取材した「ヒロシマ・ノート」(65年)は平和の思想を広く伝えた。沖縄戦での「集団自決」について書いた「沖縄ノート」(70年)では、旧日本軍が命じたとの記述を巡って提訴されたが、法廷で「確信は強くなっている。訂正の必要は認めない」と述べ、最高裁で勝訴した。
護憲の運動では、作家の小田実さんらと2004年に「九条の会」を結成した。東京電力福島第1原発事故に衝撃を受け、脱原発を訴える大規模な集会を呼びかけた。自ら先頭に立つ姿が印象に残る。
1994年、ノーベル文学賞を受賞した際に記念講演で述べた「民主主義と、不戦の誓い」を貫く姿勢は一切揺らぐことがなかった。「僕は一生どんな国家の勲章も受けない」として文化勲章を辞退した。
小説の執筆と言論活動に、全ての知性と知力を注いだ88年の生涯だった。冥福を祈りたい。
