アクリル板の向こう側で扉が開き、刑務官と共に六十男が現れた。神戸拘置所の面会室。男性は詐欺・業務上横領事件で判決を数日後に控えていた。
「初めまして、ですよね?」。目の前にいる私たちを見て、記憶を確かめるように言った。うなずくと「ですよねぇ」と笑顔を見せてパイプ椅子に腰を掛けた。そのまま、ほおづえをつくような姿勢で壁にもたれかかった。「で、何が聞きたいの?」
地域活性化の旗手と呼ばれた男性が、なぜ横領と詐欺に手を染めたのか。それが取材の焦点だった。
■事件は「関西の自由が丘」で起きた
阪急電鉄神戸線の岡本駅前。商店街は石畳が敷き詰められ、おしゃれなカフェや雑貨店など約200店が軒を連ねる。その街並みは、東京の高級住宅地になぞらえて「関西の自由が丘」とも呼ばれる。
男性はこの商店街で振興組合の理事長など役員を15年近く務めてきた。
商店街で働くイケメンたちでつくる「石だたみボーイズ」、LINEを使った商店街の案内サービス「岡本コンシェルジュ」、古民家コンサート-。
男性の携わった事業は、新聞や雑誌で何度も取り上げられた。地元大学が開くフォーラムで講師を務めたこともあり、商店街活性化の仕掛け人としてカリスマ的存在だった。
そんな男性に着服と補助金不正受給の疑惑が浮上したのは2019年8月。商店街のイベント事業の経費などを水増し、行政の補助金1900万円余りを不正受給した上、振興会の組合費計約980万円を着服したというのだ。金は生活費などに充てていたという。
■異色の経歴を持つイタリア料理店長
面会室での男性は饒舌(じょうぜつ)だった。「僕は音大出で、元はミュージシャン」。せきを切ったように自身の経歴を語った。
神戸市出身。1982年ごろから、同市東灘区・岡本にある飲食店に勤めたが、95年の阪神・淡路大震災で店が廃業したという。
独立したのは99年。岡本商店街に自分のイタリア料理店を構える。音楽仲間のつてを生かし、店でジャズライブなどを催すうち、組合に引き込まれた。
「ランチ営業をやっていなかったので『昼ひまだろう』と言われて」
音楽イベントで商店街に人を呼び込むうち、徐々に商店街振興組合の中心人物になっていた。
男性の説明によると、組合の役員を務めていた間、岡本商店街は行政から計1億7千万円の補助金を受け取っていた。自ら申請書を書いたという。
次々に新しい企画を打ち出す岡本商店街は、行政にとっても都合が良い存在だった。
「元理事長は有名人だったし、むしろお願いして補助金を申請してもらっていた」。ある行政職員はそんなふうに明かす。
審査も甘かった。男性ですら「書類さえ整っていれば申請は通った。こんなものでいいんだと思った」と驚くほどだった。
会計管理を一手に担うようになると、ほどなく男性は偽造領収書を用いた補助金の過大申請に手を染め始める。余った金は組合事業の「裏金」としてプールされた。「理事会で金銭の使途を決定するのは大変。面倒だから自由に使う金があった方が良いと思った」。男性は動機をそう説明する。
だが、男性の金銭管理はまるでずさんだった。
着服した金は組合だけでなく、自分の生活費や家賃に充てていたといい、その額は立件されただけでも約1千万円に上る。検察官は「もはや職業的犯行だ」と組合の財産を私物化する姿勢を厳しく非難した。
ただ、男性の弁護士によると、補助金で私腹を肥やしていたはずの男性は、国民保険も国民年金も支払いを滞納し、被害弁済するだけの貯蓄もない。
男性は商店街事業に熱中しすぎた。日中は組合業務をこなし、夕方から深夜に自分の店を営業。徹夜で補助金の申請書を書き上げることもあり、家族と別居までした。
「組合はボランティアが普通なので給料はなし。365日、商店街事務局で働いていた。そんなバカはいない」
情熱はどこから来るのか。男性は「阪神・淡路(大震災)の時、岡本で食べさせてもらった。恩返しをしたい」とまちへの愛着を口にした。
■塀の中で語る夢
「マスコミにも度々登場し、商店街をもり立ててきた被告の今は、自業自得とは言え、あまりに惨めで気の毒」。弁護士は最終弁論で、男性の絶頂期と逮捕後の落差を強調し、同情を誘おうとした。
当の本人は終始、楽観的な態度を崩さなかった。判決前は「僕、多分収監されるんですよ」と明るく語り、刑期を終えた後は岡本商店街で店を再開し、再び地域活性化に関わりたいと明言した。
商店主らから完全に信用を失った男性が、再びまちづくりに関われるのか。反発は容易に想像される。
神戸地裁が言い渡した判決は懲役4年の実刑。判決から3日後、男性から手紙が来た。
「岡本にはポテンシャルがある。世界から人を呼び込める」
地元の農作物を使い、欧米人向けにスローフードをアピールしてはどうだろう。六甲山の登山も外国人は大好きなはずだ。
塀の中で、あり余る時間を使い、今も商店街振興の夢を描いている。
(那谷享平、井沢泰斗)