新型コロナウイルスは第6波のオミクロン株が広まっています。2月5日に予定していた「有馬節分会」は3月13日(日)に延期します。
節分はもともと厄よけの行事です。「早くコロナを払いたい」との思いがあるため、「中止」にはしませんでした。節分は季節の変わり目、神様が忙しいのでその間をついて魔物が人々を襲うといわれています。そこで人々は変装して魔物を退散させます。有馬節分会は変装にコスプレを取り入れています。楽しいイベントなのでぜひお越しください。
節分に付き物の豆まきはいつ頃から始まったのでしょうか。調べると、室町時代の相国寺の僧侶、瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の日記「臥雲日件録(がうんにっけんろく)」に「散●豆因唱鬼外福内」と書かれています。1449年1月16日の日記です。しかし有馬は九鬼さんの所領だったので「鬼は内、福も内」と言って豆をまきます。
この瑞渓周鳳は1452年に有馬温泉にやって来て「温泉行紀」に詳しく旅程を書いています。
4月7日早朝、お供の僧を1人連れて輿(こし)に乗って陸路有馬に向かい、山崎で昼食を取り、箕面の瀬川の宿に夕方着いたと書かれています。
1日45キロぐらい移動したことになるので、昔の人は歩くのが速かったのだと思います。
翌日、道に迷っていると有馬から帰りの者が白杓子を持って通りかかりました。早速道を尋ねると、教えられた通り道標があり190町(約20キロ)と記載されていました。
この時代にも道標があり、有馬の名産が白杓子だったようです。生瀬で輿に乗ったまま武庫川を渡り、船坂からは道が険しくなったので輿を降りて草履をはいて有馬に到着しました。船坂からの道程はアップダウンが激しく、この時代大変だったようです。
当時の有馬の様子も書かれており、人家は約100軒で町は東西に200メートル程蛇行していたとあります。今の湯本坂は秀吉が川を付け替えたので、その前の状態が記載されています。
温泉の入り口には4間ほどの脱衣場があり、階段を5、6段下るとまた4間程の湯室があります。真ん中に縦1・5メートル、横2メートルほどの浴槽があり、10人程が立って入るようになっていました。底は石砂で岩間から温泉が湧き出ていて、その浴槽を半分に仕切り、一の湯と二の湯に分けていた、ということが書かれています。有馬の温泉は常に金の湯の所で湧いていたので、当時の地表から3メートル程掘れば温泉が湧いていたということです。(有馬温泉観光協会)
【編注】●は、烈の「列」が、左側は「土」の下に「方」、右側は部首「のぶん」

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