有本嘉代子さんが3日、亡くなりました。北朝鮮に拉致された三女恵子さんの帰国を信じ、活動に取り組みましたが、再会は果たせませんでした。有本恵子さんの拉致問題を取材した2002年の神戸新聞の記事を再掲します。
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今月二十三日、有本恵子さんの両親、明弘さん(73)と嘉代子さん(76)は北海道にいた。一九八〇年、欧州で失跡した札幌市出身の男性=当時(22)=の兄(47)と久しぶりに再会する日だった。
男性は有本さんと一緒に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に拉致されている可能性があるという。兄は弟の安全を考えて、これまで表向きの運動を控えてきた。明弘さんらは、名前を公開した上で救援活動に加わるよう勧めたが、「考えは変わらない」。それが兄の返事だった。
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有本さんと札幌出身の男性、それぞれの実家の出会いは八八年九月にさかのぼる。
娘の失跡を警察に届けても手掛かりはなく、明弘さんらは途方に暮れていた。そこに札幌の見ず知らずの人から電話がかかった。
「行方不明の息子の手紙がポーランド経由で届いた」
細かく畳んだ跡のある便せんには、有本さんだけでなく、熊本市出身の男性と共に平壌にいると書かれていた。生活苦を訴えつつ「最低、我々の生存の無事を伝えたく」第三者に手紙を託すとも記されていた。
明弘さんは安どした。「やっと居場所が分かった。これで娘は帰れる」
両家族は北朝鮮とつながりの深い社会党(当時)や自民党の有力代議士を頼り、救出を要請した。しかし相手にされなかった。自民、社会党と北朝鮮の朝鮮労働党は九〇年、共同宣言を発表した。拉致問題はない、との扱いだった。希望は怒りに変わっていった。
翌年、記者会見を設定しながら、直前に北朝鮮につながりのある人物に「公表しない方が解放につながる」と説得され、結局、記者の質問に口をつぐんだこともある。
期待は裏切られ続け、常に国交回復が優先された。このまま拉致問題がなかったことにされないか。公表し北朝鮮を刺激することで、危険が及ばないか…。迷いながらも、明弘さんと嘉代子さんは決意した。九四年、実名を世間に明かし、救出活動に一歩踏み出した。失跡から十一年後だった。
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明弘さんと嘉代子さんは今年三月、よど号犯の元妻(46)と初めて会った。元妻は泣いて謝った。娘の人生を台無しにした当人に、明弘さんは「よく証言する気になってくれた。感謝します」と声をかけた。政府も政治家も頼りにならず、孤独な闘いを続けてきた明弘さんは、そう言わずにおれなかったという。
元妻は北朝鮮に二人の娘を残している。語ることが、どういう影響を及ぼすのか。その不安を両親は痛いほど分かっていた。
(2002年4月27日 神戸新聞)