太平洋戦争の従軍看護婦だった治居冨美(はるいふみ)さん(95)=兵庫県小野市=が4年前に自費出版した手記「今日を生きる」を、治居さんの主治医篠原慶希(よしき)さん(69)=同市=が千部増刷した。中国・上海の陸軍病院で見た、生死の境で母を呼ぶ兵士など、描かれたありのままの戦争の姿に、父が軍医だった篠原さんが共感。戦後75年の今年、改めて多くの人に読んでもらおうと、私費を投じて無料配布する。(笠原次郎)
治居さんは北海道・礼文島生まれ。本で見た従軍看護婦に憧れ、北海道の日本赤十字社救護看護婦養成所で学んだ。その時に兵士と同じ召集令状、いわゆる「赤紙」を受け取り、病院船で上海に向かった。
手記によると、上陸後、敵の兵士が埋められた小山をいくつも見たという。病院ではマラリアなどの伝染病治療に従事した。骨と皮になった兵士は、母の名を呼び泣きついてきた。命を救うため、失神した兵士の手足を軍医が切断すると、後に目覚めた兵士は気も狂わんばかりだったという。
終戦後も混乱を極めた。ある晩には、一度に兵士ら5人が亡くなった。治居さんは助けられなかったことをわびながら、遺骨の一部を日本に送るため、遺体の小指を切り取った。
中国人の暴徒に殺されるとのうわさも広がった。青酸カリを渡された治居さんら同期5人は、部屋の隅で水と青酸カリを前に「さようなら」と合掌。涙があふれ、互いに見つめ合った時、飛び込んできた婦長に止められたとつづる。
帰国後、結婚して小野市に移住。定年まで養護教諭として勤めた。手記では、養護教諭時代、貧しい子たちに自分の弁当を分け与えたことなども紹介。治居さんは「生きて日本に帰りたいと泣き叫んだ兵士の姿は忘れられない。戦争の怖さや命の大切さを伝えたい」と話す。
篠原さんは昨年12月、治居さんが入るグループホームの職員を通じて手記を入手。軍医として捕虜にもなった父に思いを巡らせながら読み、「戦時中の兵士と、戦後の子どもたちに対する共通した優しさ、母性に感銘を受けた」という。
手記はA5判、130ページ。2016年に300部出版したが、今回は千部を無料で配布する。送料500円のみ必要。篠原医院TEL0794・65・2810