〈戦争のトラウマ癒えざる夫(つま)を容(い)れ吾のストレス青空に吐く〉。兵庫県洲本市の歌人荒浜悦子さん(88)は、「傷痍(しょうい)軍人」となった夫と共に戦後を生きてきた。戦地から故郷の淡路島に引き揚げてきた後、一時は寝たきりになり、晩年も過酷な記憶にさいなまれた夫。“終わらぬ戦争”への思いを三十一文字につづり続けている。(佐藤健介)
夫の威(たけし)さんは1941年、陸軍に応召した。当時20歳。小学校の教員になってまだ1年目だった。中国大陸を転戦した後、フィリピン・バターン半島で戦線に加わった。
42年、腰を撃たれて重傷を負い、脊椎カリエスなどの感染症を患った。立ち上がることもできなくなり、帰国。大阪の傷痍軍人療養所に入院したが、病床不足を理由に、治癒しないまま49年に退院を余儀なくされた。
淡路島へ戻った後もほぼ床に伏していた。「財産をつぎ込んででも治す」。家族は刺し身などの食材を調達し、栄養をつけてくれた。徐々に回復して再び教壇に立てるようになり、51年に悦子さんと結婚した。
暮らしは楽ではなかった。療養の費用がかさんだ上、戦後の農地解放で土地の大半を失った。悦子さんは慣れない農作業に励んだ。腰に後遺症があり、身をかがめることができない威さんの着替えを手伝ったり、腰をもんだりすることも日課だった。
島内で校長を歴任し、へき地教育にも尽力した威さん。慕われる一方、戦争を語ることはほとんどなかった。
ただ、毎年8月、終戦の日の夜だけは違った。飛行兵として敵艦に体当たりして散った親友の思い出を話して涙ぐんだ。「密林戦で気絶して意識が戻ると多数の死体に埋もれていた」「兵より軍馬の命が尊ばれる風潮だった」-。やりきれない思いを漏らした。
胸の奥深くに刻まれた記憶は、再び現れる。退職後、脳梗塞を発症し、戦時中と現実を混同するようになった。
「敵が淡路島に上陸した」。威さんは、海岸まで連れて行くよう悦子さんに迫り、つえを持って銃を撃つしぐさをした。妄想や徘徊(はいかい)が激しくなった。
悩む悦子さんを癒やしたのは、10代から続けてきた短歌。夫婦の日々をそのまま詠んだ。
〈甲種合格 夫の英姿を知らざりき要介護5の夫と老いゆく〉
〈凍みる夜の闇を杖もて打ちつづけ傷痍の夫はまだ戦ふか〉
〈「敵前上陸、敵前上陸」と叫びつつ夫は寒夜の庭駆け回る〉
2005年、威さんは84歳で亡くなった。その後も悦子さんは歌壇で活躍。全国の短歌祭で入選を重ね、複数の愛好会を主宰する。精神障害者らに教室も開いている。
〈父の顔知らざる遺児が進行をつとめ戦没者慰霊祭終ふ〉
近作には風化への懸念をにじませる。
「平和の尊さをいかに伝えるか。それは夫が残してくれた宿題。命がある限り、歌に託していきたい」