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住吉丸が攻撃を受けた鳴門海峡を望み、平和への思いを語る浜田石一さん=南あわじ市阿那賀
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住吉丸が攻撃を受けた鳴門海峡を望み、平和への思いを語る浜田石一さん=南あわじ市阿那賀
浜田為三郎さん(遺族提供)
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浜田為三郎さん(遺族提供)

 太平洋戦争末期の1945年8月2日。淡路島沖の鳴門海峡で、宝塚海軍航空隊の予科練習生らを乗せた民間船「住吉丸」が米軍機の機銃掃射を受け、乗船していた約110人のうち、14~17歳ごろの練習生76人を含む82人が命を落とした。悲劇から75年。住吉丸の船長として同乗し、犠牲になった浜田為三郎(ためさぶろう)さん=当時(40)=の遺族が、悲しみの記憶と平和への願いを語った。(佐藤健介)

 「家族のためによう働いてくれたおやじやった。兵隊でもないのに、あんな目に遭うやなんて…」

 長男の浜田石一(いしかず)さん(85)=南あわじ市=頬を涙が伝った。

 海運業を営み、タマネギなど淡路島産の野菜を阪神間などへ届けていた父。小型の機帆船「住吉丸」で鳴門海峡の激流を航行する危険に身をさらし、妻と5人の子どもの暮らしを支えた。

 住吉丸が攻撃されたのは終戦の13日前。砲台や特攻の陣地を備えた要塞(ようさい)を淡路島に築く練習生を、徳島県側から送り届けようとしていた。機雷が多数仕掛けられた神戸港を避け、四国経由で淡路島に渡るためで、土地勘のあった為三郎さんがその命を受けた。

 住吉丸は簡素な木造船だった。練習生らは狭い船倉にすし詰めとなった。空襲警報が相次ぐ中、十分な警護もないまま船は白昼に徳島を出航し、急襲された。

 当時小学5年生だった石一さんは、淡路島側から鳴門海峡を望む海辺の防空壕(ごう)にいた。一緒に逃げ込んだ近所の住民らがざわつき始めた。「為さんの船が撃たれた」-。父の任務を知らない石一さんは信じられなかった。「荷物を運ぶだけの船やのに、なぜ」。敵機が去った後に壕から出ると、燃えながら潮に漂う住吉丸が見えた。

 夕刻、父の亡きがらが自宅へ戻った。脚がちぎれていると聞いた。直視できず、母と共に、ただ泣いた。

 大黒柱を失い、母は、幼い妹や弟の育児をしながら土木工事の現場で働いた。2人の姉がいたが、女子挺身(ていしん)隊として明石の軍需工場に勤めていた。「俺が稼ぎ頭となるしかない」と石一さんは覚悟した。

 学校に行くのをやめ、地元の漁港で漁師になった。小さな体で重い網を操り、「ぼんち(坊やの意味)網」のあだ名が付いた。「海で生きたおやじと同じ道を進む。それが息子として自然な孝行だと思った」。父の人生をたどるように、20歳ごろからは海運業へ転身した。

 とうに父の年齢を過ぎ、11人の孫に恵まれたが、父やあの日のことを思うと「今でも泣けてくる」と石一さん。何げない日常や平和の尊さをかみしめながら、強く訴える。「命ある幸せを、戦争は容赦なく奪う」

【住吉丸の悲劇】飛行士を目指す練習生らを乗せ、徳島県鳴門市から淡路島へ向かっていた住吉丸は1945年8月2日正午すぎ、米軍の攻撃を受けた。淡路島の阿那賀地域の住民らは住吉丸を港にえい航し、遺体を地元の春日寺に運び弔った。最期に母を呼ぶ練習生もいたことから約20年後、島の海を見下ろす岬に墓地と慈母観音像が建立された。同寺では毎年8月2日に慰霊法要が営まれている。

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