総合 総合 sougou

  • 印刷
「私は幸運だったから」と胸に秘めてきた被爆体験を語る土本暁さん=神戸市北区(撮影・斎藤雅志)
拡大
「私は幸運だったから」と胸に秘めてきた被爆体験を語る土本暁さん=神戸市北区(撮影・斎藤雅志)
神戸新聞NEXT
拡大
神戸新聞NEXT

 広島の原爆投下から6日で75年になる。14歳で学徒動員中に被爆し、多くの命が失われた爆心地周辺をさまよった土本暁(あきら)さん(89)=神戸市北区=は初めて取材に応じた。「人間の姿ではない」。赤く腫れた顔に手足の皮膚はだらんと垂れ下がり、体液がにじんだ肌。熱線を浴びた人の命が消える瞬間を目の当たりにした。「家族も無事で、自分は幸運だったから」と胸に秘めてきたが、被爆の記憶が風化する今、「自分の経験を何か役立ててほしい」と願っている。(井上 駿)

 75年前の8月6日、午前8時15分。旧制広島第二中学校の3年だった土本さんは、「広島二中報国隊」として、広島市の南西にあった工場に学徒動員され、リヤカーを引いていた。

 「ピカッ」。青白い光に包まれた後、工場の屋根越しにオレンジ色の巨大な火柱が上がり、空が赤く染まった。その様子を「美しい」と感じた瞬間、爆風とともに工場の部材が吹き飛んだという。青空の中を、巨大なきのこ雲がむくむくと広がっていくのを、ぼうぜんとして眺めていた。

 「街がやられている」。担任から告げられ、自転車で急いで自宅に向かった。見慣れた街並みは爆風で吹き飛ばされ、つぶれた家に閉じ込められた人々の救助活動が続けられていた。

 だが、爆心地から2キロ付近の御幸橋付近から様相は深刻になる。熱線を浴びて髪は逆立ち、顔はふくれ、皮膚を焼かれた被爆者があちこちでうめき声を上げていた。「土煙の中で幽霊がさまよっているようだった」と述懐する。

 爆心地から約1・5キロ地点にあった川沿いの自宅に着いたのは昼下がり。すでに焼けた後だった。

 川のほうに目をやると、小舟に両親の姿があった。当時、訪ねてきた知人の高齢男性とともに自宅内で被爆したため、熱線からは免れ、火が回る前に倒壊した自宅の中から脱出できたという。だが、窓のそばにいた知人はまともに浴び、亡くなった。

 「両親の身代わりになってくれたとしか思えない」と土本さんは回想する。

 その後の記憶は途切れ途切れだ。同じ中学校では、約300人の生徒が亡くなり、街じゅうの至る所で黒焦げになった死体を見た。

 土本さんは終戦後の夏の終わり、原爆症とみられる症状に苦しんだ。40度の熱が続き、髪が抜け落ちて痩せ細った。母が配給の塩と交換したイチジクを食べさせてくれた記憶が残る。

 土本さんは猛勉強の末、東京大に進学。「平和産業に携わりたい」と大手セメント会社に就職。会社経営にも携わり、70歳まで働き、退職後に神戸市北区に転居した。8月6日が来るたび、平和記念式典をテレビで見て、手を合わせてきた。

 一方で、「家族は無事で大病もなかった。幸運だった」として、被爆体験は進んで周囲に話さなかった。

 2004年にがんの疑いで50日近く入院した際に思い立ち、戦後60年に合わせて1万2千字の手記を残し、広島市内にある資料館と知人に送っている。長男の剛(つよし)さん(60)によると、19年12月に神戸市内で出演した講演会が被爆体験を語った唯一の機会だったという。

 厚生労働省によると、20年3月末時点で、被爆者の平均年齢は83・31歳。土本さんも3年前に妻を亡くし、現在は同市北区内の老人ホームで過ごしている。

 「老いてしまい、伝える機会も持てないが、どうにかして、私の経験を若い人に託したい」

総合の最新
もっと見る

天気(1月25日)

  • 13℃
  • 7℃
  • 10%

  • 11℃
  • 4℃
  • 10%

  • 14℃
  • 6℃
  • 10%

  • 14℃
  • 6℃
  • 10%

お知らせ