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フィリピンでの体験を語る加武三代子さん=高砂市
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フィリピンでの体験を語る加武三代子さん=高砂市
長女のミドリさんを抱く加武さん=1937年、フィリピン・ミンダナオ島
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長女のミドリさんを抱く加武さん=1937年、フィリピン・ミンダナオ島
神戸新聞NEXT
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 太平洋戦争の激戦地、フィリピンのミンダナオ島。日本から入植していた一家は難を逃れるため、ジャングルに身を潜めた。食料不足の中、日に日に弱っていった1歳4カ月のわが子はある朝、鼻から一筋の血を流し、冷たくなっていた-。75年が過ぎ、兵庫県高砂市の施設で暮らす加武三代子(かぶみよこ)さん(103)は今も、飢え死にした次男の夢を見るという。戦後を生き抜いて5児を育て上げたが、悔恨の思いは尽きない。(千葉翔大)

 島根県出身。1936(昭和11)年、マニラ麻の栽培を手掛けていた夫を追い、フィリピン・ダバオ市に渡った。アボカドなどが豊かに実り、現地人も雇うなど裕福な生活だった。

 当時は米国の領土だったが、日本軍は41(同16)年12月の真珠湾攻撃直後、フィリピンに侵攻し、占領した。加武さん一家は日本に反感を持つ先住民に監禁され、日本軍に助けられるなど、命の危険にさらされるようになった。

 45(同20)年になると、奪還を目指す米軍の空襲が激しくなり、防空壕(ごう)で暮らし始める。6月下旬、隣町に米軍がやってきたとの情報が入り、ジャングルに建てたバラックへの避難を決意。次男勝(まさる)ちゃんを背負い、他の子ども4人の手を引いた。

 樹木に囲まれて太陽の光が入らず、じめじめとした密林。食料は不足し、輸送のために連れてきた水牛の肉を塩漬けにしてつるしたが、やがてうじがわいた。洗っても全ては取れず、うじの浮いた薄い重湯を残さず食べた。

 子どもたちは「入っている芋が少ない」と泣いたが、大人の分に芋は入っていない。次第に子どもたちは、ぼんやりとして笑わなくなった。

 加武さんの母乳も、栄養失調で出なくなった。勝ちゃんは、芋をすりつぶして砂糖を入れると飲んだが、やがて砂糖もなくなった。母乳が出ない乳房にいつまでもしがみつき、泣きやまない姿に、自分も泣いた。

 ジャングルに入る前はよく笑い、立ち歩きができるようになっていた勝ちゃん。栄養が足りず、次第にぐったりするようになった。

 夜、加武さんは乳房に吸い付いた勝ちゃんを抱いて眠った。ジャングルに入って2カ月後のある朝、起きると、勝ちゃんは息絶えていた。泣く気力もなかった。バラックの近くに穴を掘り、勝ちゃんを埋めた。

 終戦はラジオで知った。4カ月ぶりにジャングルを出て、日光を浴びる。皆、川に入り、体を洗っていた。加武さんは、ジャングルに残してきた勝ちゃんに申し訳なさを感じ、水浴びすることができなかった。

 川のほとりに座り、先に集落に帰っていた人からコーヒーをもらい、飲んだ。

 「お父ちゃん、勝が生きとったらなぁ」

 ふいに口をつくと、涙があふれ、止まらなくなった。夫と2人で、声を上げて泣いた。

 同年11月、日本に引き揚げ、島根県で暮らした。勝ちゃんの爪と髪の毛は、自宅の裏山に埋葬した。

 戦後に生まれた四女を含め、5人の子を育てるため、夫婦で土木作業に出た。土砂や重い資材を運び、日々の食費を稼いだ。だが、子どもたちには、新品の傘や靴を買ってあげることさえできなかった。

 夫は休む間もなく働き続けた末、くも膜下出血とみられる症状で、58歳で亡くなった。加武さんは、学校給食の調理や電話交換手の仕事を掛け持ちして生計を立てた。

 2011年から四女を頼って姫路市に住み、現在は高砂市内の特別養護老人ホームで暮らす。

 「時々、おなかをすかせた勝の夢を見る。砂糖をもう少し持って行っていれば、助かっていたかもしれない」。今も悔やみ続ける。

 15日で終戦から75年。加武さんは「フィリピンで幸せだった生活が、戦争でつぶされてしまった。戦争なんて、本当にばかみたいなもんだった」と話した。

【日本人のダバオ入植】 1903(明治36)年から日本人の入植が始まり、最盛期の40(昭和15)年ごろには約2万人が暮らした。ロープの材料となるマニラ麻(アバカ)の栽培で繁栄したが、財を成した日本人は先住民の反感を買った。45(同20)年に米軍が上陸し、日本人の市民、兵士は山間部に逃げ込んだ。飢えやゲリラの襲撃などで数万人が命を落としたとされる。

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