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終戦後、フランス租界にあった病院で作成された冊子。全国から召集された看護婦ら約100人の名簿が記録されている(治居冨美さん提供)
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終戦後、フランス租界にあった病院で作成された冊子。全国から召集された看護婦ら約100人の名簿が記録されている(治居冨美さん提供)
戦争の記憶をたどる治居冨美さん=小野市市場町、くつろぎの杜
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戦争の記憶をたどる治居冨美さん=小野市市場町、くつろぎの杜

 兵庫県小野市の元養護教諭、治居(はるい)冨美さん(95)は太平洋戦争中、従軍看護婦として中国・上海に派遣され、約2年間、傷病兵の世話に明け暮れた。そして、戦況を何も知らされないまま、敗戦。敵地にいる彼女たちはその後…。

 玉音放送から1週間が過ぎた。

 この物語の主人公、治居(はるい)冨美(20)は生きている。

 8月15日には日赤北海道支部救護班の同期5人で、青酸カリを飲む決意を固めるほど追い込まれていたが、思ったよりも穏やかな日々が続いていた。それもきっと、敵地でありながらフランスの「租界」(外国人居留地)という比較的安全な場所にいたからだろう。

 その後、治居らは空襲で建物の一部が崩れた上海第一陸軍病院に戻る。負傷した兵士らを無事、原隊に送ることが彼女たちの任務になったからだ。

 武装解除し、丸腰になった兵士が「さようなら、ご無事で」と、病院の門から弱々しく去って行く。治居は「どうか無事に日本に着いて」と願った。

 約4千人を収容できるマンモス病院は中国戦線の各地から戻った兵士であふれていた。ベッドが足りず、2段式にした。

 治居は50人収容の病室を4部屋担当し、毎日駆け回った。

     ◆

 9月初旬。猛烈な下痢に襲われる兵士が現れる。コレラだ。

 兵士が吐いたものから感染が広がる。治居らは「またコレラが出た。どこに連れていこう」と悩んだ。伝染病棟は満室だった。

 栄養失調で骨と皮になった復員兵に、伝染病に打ち勝つ力は残っていない。三百数十人が亡くなった、と聞かされた。

 この頃、人手が足りず、遺体を焼いて遺骨を日本に送ることができなくなる。代わりに小指を切り、遺骨として送り始めた。

 一夜に5人が亡くなる日もあった。妻と子の写真を胸に抱き、眠るように死んでいる兵士もいた。治居は「ごめんなさいね」とわびながら、メスを入れた。

 第2関節で切断された指は、部隊名と名前を記した「木の札」を付けて日本に送られた。

     ◆

 12月末。さらなる悲報が届く。治居たちが姉のように慕っていた北海道班の中川婦長(29)が結核で息を引き取ったのだ。

 「婦長殿、危篤」の知らせを受け、治居たちが入院棟に駆け出した。

 その途中、川の橋の上で、朱色の月のような光が、夕日の雲のように静かに消えていくのを見た。

 「婦長殿の御霊(みたま)だ」

 みんなが足を止めた。病棟で付き添っていた先輩看護婦が「早く、早く、今、息を引き取られたの」と言うと、大声で泣いた。

 中川婦長が従軍看護婦として召集されたのは新婚3カ月。「死ぬ時は一緒と誓ったのに」。治居も声を上げて泣いた。

 終戦まで生き延びた命が、祖国の土を踏むことなく、また消えた。=年齢は当時、敬称略=

(笠原次郎)

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