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少年兵だった体験を語る森重信さん=神戸市垂水区
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少年兵だった体験を語る森重信さん=神戸市垂水区
少年戦車兵に志願した14歳当時の森さん(本人提供)
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少年戦車兵に志願した14歳当時の森さん(本人提供)
身重の体で満州から引き揚げた体験を振り返る松田よねさん=京都市内
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身重の体で満州から引き揚げた体験を振り返る松田よねさん=京都市内

 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」-。75年前の8月15日、昭和天皇が「終戦の詔書」を読み上げた玉音放送を、汗まみれで聞いた人は数少なくなった。当時の国民は敗戦、終戦をどう受け止めたのか。体験者にあの日の記憶を聞いた。(末永陽子)

■神戸・垂水の森重信さん(91)

少年兵「国に使われた」

 少年兵だった森重信さん(91)=神戸市垂水区=はその日も、宮崎県で出撃命令を待っていた。玉音放送があることも知らされていなかった。整列させられ、上官に終戦を告げられた。「何でや。戦車もある、兵隊もまだいる」「最後の一人になるまで戦いたい」と怒りが込み上げたという。

 京都市出身。14歳で静岡県にあった陸軍少年戦車兵学校に入った。身長130センチ台と小さかったが、「早く国のお役に立ちたい」と家族に内緒で志願した。少年戦車兵は、少年航空兵と並ぶ少年兵の双璧とされ、父親は褒めてくれた。

 学校では「上官の言葉は天皇陛下の言葉」と教えられた。夜中に突然起こされて走ったり、真冬に全裸でプールに入ったり、訓練は死者が出るほど厳しかったという。学校の年限は2年だったが、戦況悪化で繰り上げ卒業が増加。同期900人のうち270人は11カ月で卒業して出征し、大半は帰ってこなかった。

 戦車を米軍に引き渡す業務を終え、帰郷したのは終戦の4カ月後。復員列車から焼け野原になった広島の街を見て、「本当に負けたのだ」と実感した。

 「早く命を懸けて戦いたいと思っていた。ずっと国に洗脳されとった」「命は何物にも代えられない。そんな当たり前のことを忘れるほど、戦争は愚かだ」。目を赤くして繰り返した。

■京都の松田よねさん(99)

幼子と帰国、生きた心地せず

 松田よねさん(99)=京都市=は、8月4日に三男を出産した直後だった。玉音放送を聞き、喜びが湧き上がった。「もう息子3人を戦争で失うことはない」と。「夕方から家じゅうの電気をパパッ、パパッ、パパッとつけてね。あんなに明るい夜は、本当に久しぶりだった」と振り返る。

 その少し前まで、死を覚悟していた。

 軍医だった夫に伴い20歳で満州(現中国東北部)の牡丹江へ。息子2人を出産した。母乳が出にくく牛乳を飲ませたり、市場で買い物をしたり。子育てに没頭し、比較的穏やかだった日々は1945年春、戦況悪化で一変する。3歳の長男、2歳の次男を連れ、夫より先に帰国することが決まった。妊娠8カ月だった。

満州から列車、引き揚げ船

 数日間列車を乗り継ぎ、釜山港へ。着物や布団などの家財道具は、途中で略奪されたという。引き揚げ船に乗る際、防空頭巾を嫌がって息子が泣きだした。「敵に見つからないよう、泣く子は海に捨てられる」と聞いていた。事前に作って持参していたラスクを、息子が泣きだすたびに食べさせた。船に乗っている間、生きた心地がしなかった。

 「何度も、もう日本には生きて帰れないと思った。3人、いや、おなかの子と4人で死のうと思って…」。当時の心境がよみがえり、涙を拭う。福岡の港に下り立った時は「とにかくほっとした」といい、体の力が一気に抜けたのを覚えている。

 75年がたった今も、映画やドラマの戦争の場面からは目を背ける。「戦争は嫌。戦争なんてするもんやないです」「戦争は絶対に駄目。二度と駄目」。そう何度も声を絞り出した。

【玉音放送】天皇の声による放送。1945年8月15日正午、昭和天皇がポツダム宣言を受諾して降伏すると国民に伝えたラジオ放送を指すのが一般的。前日夜に当時の宮内省庁舎でレコードに録音された。抗戦派の将校らが録音盤の奪取を謀って失敗、自決者も出た。放送では天皇の肉声が雑音で途切れ、意味を理解できない国民も多かったが、戦没者約310万人を出した戦争は終わった。

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