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尼崎精工内の生産競争で優勝し、勤務する第二工場前で記念撮影に納まる聴覚障害者の工員ら(1943年4月12日撮影、尼崎市立地域研究史料館提供)
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尼崎精工内の生産競争で優勝し、勤務する第二工場前で記念撮影に納まる聴覚障害者の工員ら(1943年4月12日撮影、尼崎市立地域研究史料館提供)
尼崎精工の工場内とみられる場所で、腕相撲に興じる聴覚障害者の工員たち(尼崎市立地域研究史料館提供)
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尼崎精工の工場内とみられる場所で、腕相撲に興じる聴覚障害者の工員たち(尼崎市立地域研究史料館提供)

 国家総動員が叫ばれた戦時中、聴覚障害者も工場などで労働に汗を流した。数人から30人程度が一般的だった中、兵庫・尼崎の軍需工場「尼崎精工」では100人余りが勤務していた。戦争に協力できない障害者が「ごくつぶし」とまで呼ばれた時代。工員たちは「(健常者を)凌(しの)いで見せる」と懸命に働いて社内の生産競争で優勝し、自治組織で会報も出すなど活発に活動した。貴重な職と技術も得られた一方、「造った爆弾がたくさんの人を殺した」と悔悟の言葉を残す人もいた。(伊丹昭史)

 尼崎精工の創業は1938(昭和13)年。神戸の三菱造船所などで勤め、英国で電気機器について学んだ杉山黌一(こういち)が、今のJR尼崎駅の南西に設立した。扇風機などを製造していたが、程なく高射砲弾の信管など軍需品が主力となった。

 聴覚障害者の入社は40年から。ぜいたく品の製造や販売を禁ずる政令を受け、京都で着物の染色などの仕事を失った十数人を受け入れたのが最初だった。その後も毎年増え続け、44年には100人を超えた。

 働き手が戦地に送られ、工員が不足した背景もあったが、尼崎の歴史に詳しい小学校教諭の島田佳幸さん(60)は「聴覚障害者の優秀さ」も理由とする。創業者の杉山は、戦前の文書で手先の器用さや真面目さを評価。製品の検査合格率▽出来高▽欠勤率-の3部門で一般工員をほぼ上回ったとする。聴覚障害者が集中していた「第二工場」は社内約10棟の生産競争で優勝した。

 また杉山は、社内に託児所を置くなど福利厚生にも力を入れていた。人間関係に悩み、複数の会社を渡り歩いた経験があり「苦労で培った教養や感性が、障害者の採用につながったのでは」と島田さん。熟練工でなくても生産性を上げられるよう、機械や設備にも多様な工夫を施していた。

 聴覚障害者の工員たちは自治組織「工和倶楽部(くらぶ)」を結成し、42年には「工和会報」を発行。創刊号には「兵隊になれない代(かわ)りに産業戦士の一員々々となりて(中略)前途の希望洋々たるものが、みなぎり溢(あふ)れんばかり」「漸(ようや)く立派な一人前になれた様な気が致します」など悲痛な言葉が並ぶ。

 尼崎精工について長年調べている社会福祉法人「ひょうご聴覚障害者福祉事業協会」理事長で、自身も聴覚障害者の大矢暹(すすむ)さん(72)は「検閲はあったはず。実際の奮闘とは別に、軍などには『障害者がこんなに頑張っているのに』と競争をあおる意図もあったのでは」とする。取材した元工員からは「飢えないためとはいえ」と戦争に加担した悔いも吐露されたという。

 聴覚障害者たちは、45年6月の空襲で工場が壊滅的被害を受けたことを機に、多くが尼崎精工を去ったという。同社は戦後は大企業に押されて経営が悪化。56年に破産宣告を受けた。

 大矢さんは「聴覚障害者がののしられた時代に受け入れてくれたことで、国から名誉も与えられ『誇り』を持てた側面はある。ろう学校では学べなかった機械工作も習得できた。軍需工場ではあったが、業績は大いに評価したい」としている。

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