■誹謗中傷
事件の6日後、堤将太君の17歳の誕生日。バースデーケーキを用意すると、ひっきりなしに友人が訪れた。
「100人以上だった」と、父敏(さとし)さん(61)は懐かしそうに振り返る。
その後も頻繁に自宅に来てくれる彼らに、学校での様子や、事件時一緒にいたという「彼女」について聞いた。
その女の子と交際していたことを、父はそのとき、初めて知った。
事件後、新聞やテレビは〈少女と一緒にいた〉〈堤さんは女子生徒(15)に『逃げろ』と叫んだ後、男に無言で襲われた〉などと報道していたが、憔悴(しょうすい)した父がニュースに触れる気力はなかった。
ただ、少女の存在は知っていた。一緒にいるところを目撃し、「彼女か」と冷やかすと、「やめてえや」と照れた。
友人たちは、将太君がブログをやっていたことも教えてくれた。何を書いていたのか-。息子を知りたい一心でパソコンを開いた。
ネット上にあったのは誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)の数々だった。
〈夜遅くに出歩いてるから事件にあった〉
〈写真見たけどヤンキー。ヤンキーが仲間内で殺されただけ〉
〈世の中からまた一つゴミが消えてくれたから有難いな(笑)〉
興味本位。あまりのひどさに声が出なかった。
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「将太は確かにいわゆる優等生ではなく、悪ガキだった」と父は言う。
髪を染め、好きなミニバイクに乗り、仲間と公園にたむろすることはあった。
だが、夜出かけることはまずなかった。「夜は怖い先輩が来る」と避けてすらいた。
親との買い物にも付いてくる甘えん坊で、父が本気で怒ると歯向かうことなくすねる、怖がりでお調子者だった。
“ヤンキー説”が独り歩きしたのは、事件直後から新聞各社やテレビが使った「茶髪写真」だった。将太君が自分のブログに掲載していた写真だ。
だが、敏さんによると、将太君が髪を染めるのは長期休暇の間だけで、学校が始まると黒髪に戻していたという。
「事件というのは、被害者だけが損をするものなのか」
父は絶望した。
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実際、警察は当初、将太君への「怨恨(えんこん)」と「通り魔」の二つの筋で捜査した。
将太君の遊び仲間や先輩、少女の関係者ら多数が捜査線上に乗った。だが、事件の1カ月後、捜査幹部の一人はこう漏らしている。
「将太君にトラブルはなかった。いい評判しか聞かない」
(西竹唯太朗)