太平洋戦争末期、省線(現JR)甲子園口駅(兵庫県西宮市)の乗換駅として、阪神電鉄が隣接地に「甲子園口駅(停留場)」を建設する計画があったことが、武庫川女子大学(同市)の丸山健夫教授(65)の調査で明らかになった。主に軍需工場に人を運ぶ目的で着工もされたが、未完のまま終戦を迎えたとみられる。新駅の計画は同社に資料がなく、社史にも記載されないまま歴史に埋もれていたが、当時の国への提出資料から“発掘”された。駅の設計図なども見つかっている。(伊丹昭史)
JR甲子園口駅南東の線路沿いに、2階建てのように見える駐輪場がある。だが下半分は土台だけで、駐輪スペースは階段などを上がった上段のみだ。丸山教授によると、ここは現在の阪神武庫川線を延伸した甲子園口駅の元予定地。土台の上に線路を設ける計画だったと推測されるという。
阪神武庫川線は1943~44年、河口近くの旧洲先駅から省線西ノ宮駅までつなぐ形で敷設された。主目的は、戦闘機「紫電改」の製造などで知られ、旧洲先駅近くで操業した「川西航空機」への物資輸送。阪神電鉄は国道2号の阪神国道線「旧武庫大橋駅」と連絡して通勤客らを運び、以北は省線の汽車が甲子園口駅を経て西ノ宮駅まで貨物を引いた。
しかし丸山教授が今年1月、国立公文書館などで見つけた43年3月19日付の官報によると、武庫川線は「電氣(でんき)」を動力に甲子園口までの運行を認可されていた。阪神電鉄が提出した旅客収入概算書なども、終点は甲子園口。「省線甲子園口停留場と連絡致度(いたしたく)」と記した文書もあり、当初は電車も甲子園口まで走る計画だったとみられる。
見つかった新駅の設計図によると、ホームは東西に長さ約60メートル、幅は約2~4メートル。汽車と同じルートで武庫川沿いから西へカーブしてきた線路は、新駅のホーム手前で分岐する。ホームの北側は西ノ宮駅に向かう汽車が通り、南側に電車が停車。退避線もあった。ホーム西側へ階段を下りると、省線甲子園口駅に乗り換えられた。
阪神国道線と連絡する武庫大橋駅から甲子園口駅までの工事は44年10月に着工した、という阪神電鉄の報告書も見つかったが、完成を示す文書はなく、中断したとみられる。丸山教授は資材不足に加え、45年6月の空襲で川西航空機が壊滅的打撃を受け「建設の必要性が失われたのでは」とする。阪神電鉄によると、戦災の影響か、新駅に関する資料は社内に見つからなかったという。
丸山教授は「省線は阪神電鉄の競合路線だが、軍需工場のためという時代の要請もあって乗換駅を造ろうとしたのだろう。戦争があったからこその計画といえるのでは」と話している。
【阪神武庫川線】1943(昭和18)年11月に旧洲先-武庫川間で開通。順次北へと延伸され、44年11月に省線(現JR)西ノ宮駅と結ばれた。線路幅の違う電車と汽車を一緒に走らせるため、旧洲先-武庫大橋間は全国でも珍しいレールが3本の「三線軌条(さんせんきじょう)」を採用。戦後はしばらく米軍にも使用されたが、線路の多くは撤去され、現在は武庫川-武庫川団地前間で営業が続いている。
