10日に初日を迎える大相撲初場所(東京・両国国技館)で、兵庫県芦屋市出身の大関貴景勝が横綱昇進に挑む。先場所に続く優勝を果たせば、1913(大正2)年以来、108年ぶり2人目となる兵庫県出身の横綱誕生が有力だ。その貴景勝の綱とりでにわかに脚光を浴びるのが、これまでで唯一の郷土力士の横綱、大木戸森右衛門(もりえもん)。明治生まれで一般にはなじみが薄いが、横綱大木戸とは何者なのだろうか。(有島弘記)
〈第二十三代横綱 大木戸森右衛門 生誕之地〉
週末の夕刻、遊具で遊ぶ子どもたちの声が響く五百地(いおぢ)公園(神戸市東灘区魚崎南町3)の入り口に顕彰碑があった。1876(明治9)年5月13日、酒だる職人の三男として生まれ、本名は内田光蔵という。
本紙の過去記事に経歴が載っている。碑の建立を目指した1989年の記事などによると、19歳の時に日清戦争の従軍中に知り合った力士に声を掛けられ、角界入り。当時の相撲協会は東京と大阪に分かれており、大木戸は大阪に所属した。
現在の6場所制と違い、年1、2場所の開催だったが、身長177センチ、体重120キロと、当時としては大柄な体格を生かし、順調に出世した。1905(明治38)年に入幕5場所で大関に昇進すると、08~09年にかけて3場所連続で全勝優勝を飾った。
30歳を過ぎて迎えた全盛期。大阪相撲協会は、当時の相撲をつかさどっていた「吉田(よしだ)司家(つかさけ)」に横綱免許の伝授を求めたが「時期尚早」として認められなかった。背景には東京との“格差”があり、大阪は東京よりもレベルが低いとみなされていた。
昇進見送りに納得できなかった大阪協会は独断で横綱に認定。対立した吉田司家に破門されたが、後に和解し、1913(大正2)年、大木戸は正式に最高位に就いた。36歳になっていた。
晴れて綱を巻いたが、数奇な土俵人生は続く。翌年春の巡業中に脳出血で倒れ、半身不随に。在位わずか1年で引退に追い込まれた。その後も闘病生活を続け、1930(昭和5)年、54歳でこの世を去った。
通算成績は幕内在位23場所で143勝20敗。優勝回数は10度を数え、半分が全勝と「大阪相撲始まって以来の強豪力士」とうたわれた。現在の日本相撲協会は、大木戸ら大阪協会出身力士4人を歴代横綱に含めている。
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大木戸に再び光を当てる貴景勝は24歳にして、兵庫の相撲史にその名を刻み続ける存在だ。2018年11月の初優勝は、貴闘力(神戸市兵庫区出身)以来、兵庫勢では18年ぶりの快挙。19年3月に決めた大関昇進は、2代目増位山(姫路市出身)に続く39年ぶりの栄誉だった。
綱とりを果たせば、世紀をまたぐ。若き大関は175センチ、183キロ。身長は先人とほぼ同じで体重は大きく上回るが、ともに突き押しを得意としている。
新春に、兵庫を沸かせる偉業の再現はなるか。