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悲しみや怒りの感情を発散できるようにサンドバッグを置いた「火山の部屋」で思い出を振り返る富岡誠さん=神戸市東灘区本庄町1(撮影・斎籐雅志)
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悲しみや怒りの感情を発散できるようにサンドバッグを置いた「火山の部屋」で思い出を振り返る富岡誠さん=神戸市東灘区本庄町1(撮影・斎籐雅志)

 阪神・淡路大震災で親を亡くした子どもたちを支援する「あしなが育英会・神戸レインボーハウス」(神戸市東灘区)で、遺児を四半世紀見守った職員の富岡誠さん(65)が定年を迎え、活動の一線を退いた。たくましくなって施設を巣立つ多くの遺児を見送った。「元気に社会で働く姿を見られて良かった」。ありのままを受け止めたまなざしは、どこまでも優しい。(金 旻革)

 日本体育大でレクリエーションの研究に取り組んだ富岡さんは卒業後の1978年、交通遺児育英会(東京)に就職。学生寮の運営などで遺児と関わり、社会で自立できるよう背中を押してきた。

 95年1月17日の大震災は6434人の命を奪った。あしなが育英会は直後に被災地入りし、新聞記事を頼りに遺児を探し歩く「ローラー調査」を開始。1年間で337世帯573人の震災遺児を確認した。

 富岡さんも調査に参加し、1日10キロ歩いて避難所などを訪ねた。

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 その夏、父親と妹を亡くした小学5年生の「かっちゃん」は黒い虹が架かった絵を描いた。傷ついた心を少しでも癒やしてもらおうと企画した海水浴キャンプでのことだ。心の傷はどれほどだろう-。富岡さんは翌春、交通遺児育英会を辞め、震災遺児を支える道を選んだ。

 99年1月に開設したレインボーハウスには、遺児たちが毎日やって来た。

 学校帰りに立ち寄り、駆け回って遊んだ。不登校の中学生もいたが、登校を促すことはしなかった。

 「決めるのは子ども。ありのままの気持ちを大事にする」。卓球をしたり、おしゃべりをしたり。余計なアドバイスはしない。一人一人を大切にすることを、何よりも心がけた。

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 関わった遺児すべてを真っすぐに育てられたとは思わない。ただ、うれしくて心に残る記憶がある。

 2011年の東日本大震災の時だ。

 大学生の遺児らは直後、宮城県石巻市などの避難所を訪ね、被災者を励ました。「今度は私たちが支える番」と誓い、東北にも開設されたレインボーハウスに今も時折、足を運ぶ。

 富岡さんは「神戸で成長した遺児が希望を与える存在になっている」と目を細める。

 今年1月から非常勤職員としてハウスに携わる。震災遺児がすべて成人した今、ケアの対象は病気などで親を亡くした遺児たちだ。担当する20~40代のスタッフを後方支援する。

 「支える人の存在が最も大切。私の経験が少しでも役に立てば」。求められる限り、手を差し伸べる。

【特集ページ】阪神・淡路大震災

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