26年前と同じ場所で、今年も朝を迎えた。17日午前5時46分、神戸市灘区で手を合わせた1人の男性。阪神・淡路大震災でアパートが倒壊し、両親は目の前で炎にのまれた。その後も長く、闇の中を生きてきた。人生に再び光をもたらしたのは、人とのつながりだった。(霍見真一郎)
同区の自営業藤田一弘さん(56)。当時、同区六甲町1の木造2階建てアパートで、父義弘さん=当時(63)、母せつこさん=同(65)=と暮らしていた。1階の6畳2間。南側の部屋に藤田さん、北側に両親がいた。
「どーん」という音と共に突き上げられ、次の瞬間、「2階が落ちてきた」。倒れてきたテレビに右足首が挟まれた。
約10分後、がれきに閉ざされた空間がだんだんオレンジ色に照らされてきた。
「火事みたいや」
うめき声を上げながらテレビを足で押しのけた。2メートルほど上に1人だけ抜けられる隙間が見えた。2階の住民に引っ張り上げてもらった。
すぐ近くに炎が渦巻いていた。「今助けるで」。両親に声を掛け、がれきを除こうとしたが、重い木が重なり合ってびくともしない。西風で炎はどんどん迫る。
その時、せつこさんが言った。「もうええから」。子どもをしかるようなきっぱりとした調子だった。「はよ逃げ」と言われているような気がした。義弘さんは何も言わなかった。最後は近所の人に手を引っ張られて下ろされた。
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翌18日、消防団員だった近所の深田徳次さん(86)とばったり会った。「おとんとおかん、焼けてしもうた」。幼い頃からかわいがってくれた深田さんは、抱きしめて一緒に泣いてくれた。
火が収まった19日に深田さんらと骨を拾いに行った。熱を持った骨をブリキの波板に載せた。2人とも泣き通しだった。
しばらく、同市兵庫区の親類宅に身を寄せた。勤めていた会社はやめてしまった。何度も同じ夢を見た。震災でアパートがつぶれず「良かったなあ」と親子で話している。目が覚めて現実に引き戻される。酒に溺れた。
「人に迷惑掛けなかったらええ」とやんちゃしても許してくれた母。体を壊しても働いて育ててくれた父。このままでは、と派遣会社に登録し、そのつてで個人営業を始めた。何とか食べていけるようにはなった。ただ、それだけだった。楽しみもなく、心にふたをしたままだった。
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2009年ごろ、小さな出会いがあった。よく食べに行っていた近くのとんかつ店の店主森英志(ひでし)さん(68)。まかないを酒のあてに出してもらったことで仲良くなった。
森さんは14年、淡路島に移ることになった。店舗兼自宅のログハウスを建てるのを手伝い始めた。神戸での仕事を早く切り上げては島に渡り、作業後に一杯。「泊まっていったらいい」。藤田さんの部屋も用意してもらった。
今も度々、島を訪れる。増築の作業やまき割り。2人で黙々と汗を流すのが楽しい。いつしか森さんを「おやっさん」と呼んでいた。「唯一自分が気を許せて、認めてもらえる人」
これまで、ことさら震災の話はしなかった。しかし最近、思い始めている。「おやっさんに、あの朝の話をしてみようか」。26年たってようやく、口にできるかもしれない。
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