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宮廷絵師の長野祐親が碑文を刻んだ、父・波多野嘉衛門の墓(中央)=丹波篠山市(芦田典子さん提供)
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宮廷絵師の長野祐親が碑文を刻んだ、父・波多野嘉衛門の墓(中央)=丹波篠山市(芦田典子さん提供)
活字に起こした長野祐親の碑文(山内順子さん提供)
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活字に起こした長野祐親の碑文(山内順子さん提供)

 お墓を調べてみたら、先祖は宮廷絵師だった-。江戸時代後期に京都を中心に活躍した絵師、狩野永岳(えいがく)の弟子で、丹波国出身の長野祐親(すけちか)の前半生が、墓に刻まれた碑文から明らかになった。兵庫県丹波市の芦田典子さん(67)が、同市の地域史研究家山内順子さんと、自身の先祖の墓を調査して分かった。碑文には、二十歳前後で永岳に師事したことや、墓建立までの経緯が刻まれていた。(藤森恵一郎)

 調べたのは、同県丹波篠山市にある「波多野嘉衛門(かえもん)」の墓。芦田さんによると、土台を除き高さ約1メートルで、古い墓石の中でもひときわ大きく、裏面に碑文が刻まれていた。内容は分からないままだったという。

 芦田さんは、5年ほど前に氷上郷土史研究会に入会。会員の探求心に触発され、「先祖のお墓を調べてみよう」と発起し、昨年、神戸大学地域連携推進室の松下正和准教授(日本古代史)に碑文の解読を依頼した。

 その結果、墓は祐親が1869年に建立し、亡き父波多野嘉衛門と母を思い、子孫のために自らの生い立ちを記していたことが分かった。祐親は幕末から明治にかけて宮廷絵師として活躍し、桂宮御殿のふすま絵などを手掛けたことで知られる。

 解読によって、祐親が永岳に師事した時期や、長野家に養子に入った時期なども明らかになった。都で仕事をしながらも、丹波を思う郷土愛も刻まれていた。

 山内さんらによると、祐親は父や祖父らから、八上城主の波多野秀治の子孫だと聞かされていた可能性が高いといい、「だからこそ、生家に大きな誇りを持っていたのでは。都での華々しい活躍の中でも故郷を懐かしむ、切ない心情が表れているようだ」と話す。

 祐親が、長野家の養子に入った確たる理由は分かっていない。だが、長野家は朝廷に仕える由緒ある家だったため、山内さんは「宮廷絵師として、活躍の場を広げられると考えたのではないか」とみる。

 調査結果を日本美術史が専門の大学教授に伝えたところ、墓石のさらに詳しい調査が行われることになったという。

 芦田さんは「子孫に伝えたいという祐親さんの思いをかなえられて良かった。今後は祐親さんが描いた作品を探したい」と話している。

 調査結果は、氷上郷土史研究会が4月に発行した会誌「冰上(ひかみ)」第4号に掲載されている。同会誌は千円。

    ◇   ◇

■長野祐親の碑文(解読)

 (波多野嘉衛門は)(氏は)波多野氏、諱は秀親、通称は嘉衛門。丹波の人である。文化四(1807)年四月十八日、家にて病死し、先祖の墓のかたわらに葬られた。

 ところで、私(墓石を建てた長野祐親)は幼き頃より画を好み、二十歳前後の若い頃、京都やその近国に遊学し、狩野永岳に師事して年月を過ごした。

 安政三(1856)年八月、故あって長野氏を継ぎ図書寮の官に任じられ丹波介従六位上に叙せられた。(都で)仕事をしていても故郷の丹波が思い出され、長野氏を継いだとはいえども本来の性(姓)である波多野氏を思い出さない日はなかった。

 ついには私の姉の夫に本性(波多野姓)を継がせ、郷里において祭祀を行うようになった。これはまさに私が少しでも亡き父母に尽くす理由でもある。後世の子孫のために私の履歴を記し、それでもって亡き父母への碑文に換えんとするのみである。

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