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篠山線の廃線跡近くを走る「八上ストレート」=丹波篠山市内(自転車工房ハイランダー提供)
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篠山線の廃線跡近くを走る「八上ストレート」=丹波篠山市内(自転車工房ハイランダー提供)
篠山口駅で待機する篠山線のディーゼルカー。硅石などを積む貨車と客車の混成列車だった(1970年頃、松本剛さん提供)
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篠山口駅で待機する篠山線のディーゼルカー。硅石などを積む貨車と客車の混成列車だった(1970年頃、松本剛さん提供)
「菜っ葉服」と呼ばれる作業着姿の畑穣さん。国鉄、JRで運転士を務めた=丹波篠山市内
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「菜っ葉服」と呼ばれる作業着姿の畑穣さん。国鉄、JRで運転士を務めた=丹波篠山市内

 国鉄篠山線が全線廃止となったのは、半世紀前の1972(昭和47)年3月1日。戦争や戦後のモータリゼーションなど、時代の波に翻弄(ほんろう)されながら、28年の役目を終えた。前日の「お別れ列車」は、住民や鉄道ファンの惜別の思いを乗せ、篠山盆地を駆けた。ディーゼルカー独特の汽笛が、晩冬の田園地帯にこだました。

 開業当初は蒸気機関車(SL)が運行し、ディーゼルカーは戦後の57年に登場。兵庫県丹波篠山市味間新在住の元機関士・畑穣さん(84)も生まれ故郷の篠山線で一時、ディーゼルカーを走らせた。「線路脇に茂った雑草の種の油のせいで、車輪が滑ることがあって…」と現役時代の苦労を語る。

 高校卒業後、国鉄に入り、定年まで鉄道マン一筋。若い頃は機関助士として、SLの釜に石炭を放り込む重労働に汗を流した。自宅には、機関士の腕章や制帽、「菜っ葉服」と呼ばれた青い作業着などを、今も大事に保管している。

 ローカル線の篠山線は運行本数も少なく、速度も時速35キロ程度。「運転中、てんびん棒で苗を担いだ農家の人が線路を横切ったこともある」と苦笑する。丹波霧や美しい朝焼けの中を走ったのもよい思い出だ。合理化による路線廃止には「時代の流れ。自動車の便利さにはかなわなかった」と嘆く。

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 廃線の方針決定には、沿線住民らが激しい反対運動を繰り広げた。「モウ反対」と称し、牛もデモに加わった。市内の男性(62)の手元には、廃線反対の署名や嘆願書が残る。「役場で廃棄処分される直前に引き取った」と男性。地元の近現代史を伝える貴重な1次資料として、市の市史編さん担当部署に調査してもらった。

 篠山線は地元が長年待ち焦がれた念願の鉄路だった。明治時代に出された、京都・姫路間の「京姫鉄道」建設案は計画のみ。昭和初期には篠山と京都・園部を結ぶ「園篠(えんじょう)鉄道」の起工が決まったものの実現しなかった。

 戦中の44(昭和19)年に国鉄篠山線が開通したのには、太平洋戦争が関係している。建設の主目的は多紀郡内の鉱山で採掘される硅石(けいせき)、マンガンの輸送。いずれも鉄や鋼の生産に必要で、戦争の激化とともに需要が高まった。

 鉱山労働には、多数の朝鮮半島出身者も従事した。「その埋もれた歴史を忘れてはいけない」と調査、発掘したのが、同県丹波市の松原薫さんら。昨年出版した岩波ブックレット「消えたヤマと在日コリアン」にも研究内容を記録している。

 鉄道建設は「国策ゆえだろう、着工からわずか1年半ほどで完成した」と篠山線に詳しい松本剛さん(62)=丹波篠山市=は指摘する。郡内で「勤労報国隊」が結成され、連日、住民らが作業に協力した。200人以上の朝鮮人が働いたと記した新聞記事もあるという。開業も廃線も国策だった。

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 市内で鉄路の面影を伝えるのが、自転車愛好家らに人気の通称「八上ストレート」だ。線路跡近くの田畑の中を走る約3キロの直線道路である。スマートフォンを使って、丹波篠山をサイクリングで巡るモバイル・スタンプラリーのイベントコースにも昨年、組み入れられた。大きな夏雲へ向かって、まっすぐに延びる道は、人々の記憶の中の国鉄篠山線と、時空を超えてつながっている。(堀井正純)

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