庭の沙羅(さら)の木が小さな新芽を付けている。
三月中旬、鈴木順子さん(30)は退院の日を迎えた。
尼崎JR脱線事故で重体に陥ってから一年になろうとしている。
事故後、意識不明の状態が長く続いた。たくさんのチューブにつながれ、体は全く反応しなかった。二度の転院とリハビリ。やがて手足が動くようになり、言葉を発するようになった。
十カ月半に及んだ入院生活。退院した順子さんは、バリアフリーに全面改装した西宮の家に、車いすに乗ってゆっくりと入る。家族や看護師らが見守る。
「もう病院に帰らなくてもいいのよ。ずっと一緒やからね。安心していいからね」
寄り添ってきた母親のもも子さん(58)が声をかける。
三月十六日夜、家族十人でお祝いの宴を開く。食卓に「タイの姿蒸し」。リビングに笑顔がそろう。寝たきりの順子さんは、食事のときはチューブを使って栄養剤を胃に流し込む。
「退院おめでとう」の言葉に、「ありがとう」と応じる。
最近、順子さんは落ち着いた空気をまとうようになった。「事故から一年もたたないうちに、この日を迎えられたのは、みんなが順子の可能性を信じてくれたおかげ。そして、これからが新しい始まり」
もも子さんがその顔を見つめる。穏やかな、優しい目で。
一年前の春。順子さんは新たな挑戦を始めていた。武庫川女子短大を卒業後、派遣社員などをしていたが、四月から設計技術(CAD)の講座に通った。パソコンを使ったデザインが得意で、「テクニカルイラストレーター」としても活動していた。
休暇を利用してスキューバダイビング、友人と過ごす楽しい時間、お気に入りの音楽。三十歳の日常が流れていた。
二〇〇五年四月二十五日。朝、仕事のため家を出るもも子さんをパジャマ姿で見送った。
「いってらっしゃい」と二回、声をかける。
そして、大阪市内のCAD講座に行くため、身支度を始める。手作りのお弁当をかばんに入れる。真珠のネックレスを付け、ミニバイクでJR西宮名塩駅へ向かう。
名塩駅から宝塚駅に出て、快速電車に乗り換える。前から二両目に乗り込む。
午前九時三分、電車が宝塚駅を出発する。
数日前、順子さんはもも子さんに、こんなことを話していた。「お母さん、私の人生、これからどんな人生やろな。お母さんの年まで生きるとしたら…」
快速電車が尼崎市内に入った。午前九時十八分ごろ、レールを外れて大きく傾き、マンションに激突した。
◇
乗客百六人が死亡、五百人以上が負傷した尼崎JR脱線事故。乗客だった鈴木順子さんは、集中治療室で生死の境をさまよった。順子さんと家族の一年をたどる。(中島摩子)
2006/3/31