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亡き娘をしのぶ集いに招かれた上田直子さん(上左)。父親の秀夫さん(上右)も同席した=19日午後、志手原幼稚園(撮影・大森 武)
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亡き娘をしのぶ集いに招かれた上田直子さん(上左)。父親の秀夫さん(上右)も同席した=19日午後、志手原幼稚園(撮影・大森 武)

亡き娘をしのぶ集いに招かれた上田直子さん(上左)。父親の秀夫さん(上右)も同席した=19日午後、志手原幼稚園(撮影・大森 武)

亡き娘をしのぶ集いに招かれた上田直子さん(上左)。父親の秀夫さん(上右)も同席した=19日午後、志手原幼稚園(撮影・大森 武)

 愛する人を突然、奪われた「あの日」がまた、めぐってくる。百七人の死者を出した尼崎JR脱線事故は二十五日、発生から丸三年を迎える。絶望の底に沈んだ遺族たちは、亡き人の面影を胸に、必死で前を向いた。周囲に支えられて。安全を願って…。その歩みをたどる。

 食い入るように絵本を見つめる子どもたち。「それから子ブタはずっと、幸せに暮らしました」。「三匹の子ブタ」の最後のページが読み上げられると、母親たちは涙をぬぐいながら「彼女が今もそばにいてくれる気がする」とほほ笑んだ。

 三田市志手原の志手原幼稚園で、十九日に開かれた「智ちゃんのえほんのへや」。一両目に乗車し亡くなった同市大原の主婦平野智子さん=当時(39)=をしのぶ集いだった。智子さんの所属した読み聞かせグループ「しずくの会」が智子さんの友人ら約三十人を招待した。輪の中に、智子さんの母、上田直子さん(69)=丹波市市島町=もいた。「こんなに大勢のみんなが慕ってくれている。あんたは幸せやね」

 自慢の娘だった。神戸市内の私立幼稚園に数年勤務した後、結婚し三田へ。三人の男の子にも恵まれた。「気兼ねなく何でも話せた。気配りができて、私にはもったいないぐらい優しい子」

 その娘が突然、逝った。死を受け入れることができず、ぼうぜん自失の日々を送ったが、一年後、上田さんは、娘に向け“手紙”をつづり始めた。日々の出来事を記した「天国への交換日記」は今、四冊目になった。

 「何をしてもあんただったらどう言うかなといつも思う」(二〇〇六年六月十六日)。「誕生日おめでとう。いくら年が過ぎても三十九歳のままなのね。(中略)『クリスマスと一緒だった』とぼやいている顔が目に浮かびます」(〇七年十二月二十五日)。

 いくら書いても智子さんからの返事はないが、上田さんは筆を止めない。書いている時は娘を感じられるからだ。

 「四月二十五日はいや。こない日であってほしい思いだよ」「でも(智子は)お母さんの心の中には生きていると思っていたいの。だって生きてるもの」(同四月二十四日)。

 娘の友人たちも、折れそうになる心を救ってくれた。事故の半年後、地元小学校に智子さんのためにサクラが植えられた。一周忌には、智子さんをモデルにした絵本を贈ってもらった。頻繁に電話をくれ、つらい時は一緒に涙を流す。

 「今日はね、『しずくの会』の人たちが、本の読み聞かせにきてくれたよ」(同四月十六日)。

 昨年から上田さんは智子さんの生い立ちを書き始めた。娘が生きていたことを伝えるために。

 今も事故のニュースに触れると、震えと涙が止まらないことがある。だが、「娘は、娘の友人の心と日記の中に生きている」。それが上田さんを支えている。だから、きょうも手紙をつづる。

2008/4/20
 

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