兵庫人 第3部 アスリートの系譜
■10秒の壁、挑み続け
誰よりも速く、強く‐。アスリートの「本能」のまま二十年近く鍛錬を重ね、フィニッシュラインの向こうに「夢」を追い続けた。
一九九八年十二月、タイのバンコクで開かれたアジア大会陸上男子百メートル準決勝。一・九メートルの追い風に乗り、日本のエース伊東浩司(37)がトラックを駆け抜けた。速報表示は9秒99。公式記録は10秒00に修正されたが、「夢の9秒台」にアジア人が最も近づいた瞬間だった。
「9秒台を出せなかったのは残念だが、日本人でもできる‐と証明できた」
神戸市北区出身。鵯台(ひよどりだい)中時代に陸上を始め、卒業文集に「夢はオリンピック選手」と書いた。報徳学園高三年時に四百メートルの高校記録(当時)を樹立。バルセロナから五輪三大会を経験し、シドニー五輪では百メートル、二百メートルの二種目そろって準決勝進出という日本人初の快挙を成し遂げた。
今も百メートル、四百メートルリレー、千六百メートルリレーの三種目で日本記録を持つ伊東が現在「最強の正統派スプリンター」と評価するのが、同じ神戸出身の朝原宣治(あさはら のぶはる)(34)だ。
伊東が東海大に進学した年、朝原は夢野台高に入学した。小部(おぶ)中ではハンドボール部だった。非凡なスピードと跳躍力を持ち、走り幅跳びでインターハイを制した。
二人が初めて同じユニホームを身に着けたのは九〇年の福岡国体。四百メートルリレー兵庫代表の第三走者が伊東、アンカーが朝原だった。
これが「日本記録更新合戦」のプロローグとなった。
九三年、同志社大三年の朝原が百メートルで10秒19の日本記録をマークすると、翌年には伊東が二百メートル20秒44の日本記録で応じた。朝原が10秒14、10秒08と快調に突っ走れば、伊東も20秒29、20秒16と対抗。九八年、百メートル10秒08で朝原に追いついた伊東は、とうとう9秒台の手前まで来た。
不思議なことに、二人が同じレースを走ることはほとんどなかった。百メートルを“副業”ととらえていた伊東は「中盤から後半にかけての加速力は朝原君にかなわない。ライバルと考えたこともなかった」と打ち明ける。
「若い芽を摘んででも、勝ちたいと思っていた」という伊東の引退以降、二百メートルの日本記録を20秒03にまで短縮した末続慎吾(すえつぐ しんご)(27)ら気鋭の若手が続々と登場した。
二〇〇一年に富士通を退社し、故郷・神戸に戻った。現在は甲南大准教授を務め、陸上部女子監督として後進の育成に当たる。「兵庫の指導者はすごいと思う。自分にはまねできない」と言うが、それでもいつか、教え子が世界へ羽ばたく日を夢見る。
山を仰ぎ、海を望む神戸。ここには多くのスプリンターを輩出してきた豊かな土壌があることを、伊東は誰よりも知っている。(敬称略)
2007/6/3