兵庫人 第4部 「医」をめぐる旅
■苦しむ意味、問い続け
「今回の私の人生」
歌手の平松愛理(ひらまつ えり)(43)は、そんな言葉を口にする。
神戸で生まれ育ち、東京に出て、念願のプロ歌手としてデビューした。自ら作詞・作曲をこなし、一九九〇年代初めには「部屋とYシャツと私」の大ヒットを飛ばした。
「愛するあなたのため、いつも(私を)磨いていたいから」と歌う。前向きに結婚に向かう若き女性のラブソング。明るく、けなげな歌姫のイメージが世に定着した。
その裏には、病に苦しむもう一人の自分がいた。デビューと同時に患った子宮内膜症。腹部の激痛を痛み止めで抑えてステージに立ち、終われば病院で点滴を打った。
痛みとの闘いは十二年間にも及んだ。子宮摘出を勧める医師の言葉を退け、痛みに耐え続けたのは、母になる夢を捨て切れなかったからだ。
やがて結婚し、阪神・淡路大震災の一年後に娘を出産した。その五年後、子宮を摘出し、激痛に別れを告げた。
順調に回り始めた人生の歯車。しかし、それから半年で新たな病苦が襲いかかる。乳がんの宣告である。
手術と放射線による治療。リンパ節摘出などで八回も体にメスを入れた。その影響から、左腕の痛みに襲われた。
「なぜ、私ばかり…」
答えの見つからない孤独な問い。病気を隠して「平松愛理」を演じるには、もう気力も体力も限界だった。
二〇〇二年四月、がんを公表し、「休業」を宣言する。「なぜ、私はこんな私に生まれたのか」。二年間、その答えを探し求めた。
落ち込む心を支えたのは、幼い娘の存在だ。「この子のために元気でいよう。そんな気持ちにさせてくれる」
手術から五年。幸い経過は順調だ。体調が上向き、気力もよみがえってきた。
医療との付き合い方も変えた。物分かりのいい患者をやめ、今は納得するまで、とことん医師の説明を求める。思いが通じない医師とは縁を切る。のみたくない薬を断固、拒否したこともある。
「死なないために生きるんじゃない。自分らしく生きるために、生きるのだから」
音楽活動を再開した平松は言う。「歌を作り、人と触れ合い、娘や家族と語らう。なぜ私が私なのか。その答えはきっと、私がこの人生を全うしたときに分かるはず」
だからこそ、つづれ織りのような日々を丁寧に織り続けたいと、今は思う。
震災二年後に始めた一月十七日の神戸ライブの準備が、今年も始まる。「人より少しだけ死に近い場所で生きている。神戸で生まれたそんな私が、被災者の痛みを伝える。それも今回の人生の、シナリオなのかなって」
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病んだとき、人は医療に救いを求める。第四部は「医」と「病」に向き合う人たちの姿をたどる。(敬称略)
2007/7/1