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兵庫人 第7部 知の森へ

(1-1)ノーベル賞 湯川秀樹に導かれて
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教育にも思いを致す理化学研究所理事長・野依良治さん。「理科は入試のための科目ではない。生き物としてのヒトが、自然の中で生きること自体が理科」=埼玉県和光市の理化学研究所(撮影・山口 登)
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教育にも思いを致す理化学研究所理事長・野依良治さん。「理科は入試のための科目ではない。生き物としてのヒトが、自然の中で生きること自体が理科」=埼玉県和光市の理化学研究所(撮影・山口 登)

教育にも思いを致す理化学研究所理事長・野依良治さん。「理科は入試のための科目ではない。生き物としてのヒトが、自然の中で生きること自体が理科」=埼玉県和光市の理化学研究所(撮影・山口 登)

教育にも思いを致す理化学研究所理事長・野依良治さん。「理科は入試のための科目ではない。生き物としてのヒトが、自然の中で生きること自体が理科」=埼玉県和光市の理化学研究所(撮影・山口 登)

■化学の盲点突き業績

 世界最高の放射光施設スプリング8(兵庫県佐用町)に一本の「手ぬぐい」が飾られている。いささか場違いと思える図柄は、祇園・一力茶屋に遊ぶ大石内蔵助である。「湯川先生から僕に渡ったもの」と、はにかみながら説明する理化学研究所(理研)理事長の野依良治(のより りょうじ)(69)は、少年の目に変わった。

 物理学者湯川秀樹(一九〇七‐八一)は四九年、日本人で初めてノーベル賞を受賞した。同年から四年間、米コロンビア大で講義し、離任の際、研究室を継いだ中国系米国人学者の李政道(り せいどう)(80)に手ぬぐいを残し、李は大切に保管した。半世紀後‐。理研にも籍を置く李が今度は、理事長の野依にその手ぬぐいを贈った。二〇〇五年のことだ。

 ノーベル賞の栄誉は湯川の八年後に李へ、〇一年には野依にも輝く。手ぬぐいは、賞をリレーするバトンのように三人のアジア人学者を順に渡るという数奇な運命をたどった。野依が目を輝かせたのは「湯川先生の存在が科学者を志す契機となった」からだ。

 一九三四年十月のある夜。西宮市の苦楽園に住む湯川の頭に、独創的なアイデアがひらめいた。中間子。この未知の粒子を想定することで、悩まされ続けた原子核の問題が解決することに気付いた。湯川は、仮説を一気に書き留める。物理学に新たな分野を切り開いた記念碑的論文が、わずか二カ月足らずの驚異的なスピードで仕上げられた。

 その粒子は四七年、予言通り宇宙線の中で存在が確認された。二年後、受賞。世界的快挙が、敗戦で落胆した日本人に希望と誇りを与えた。

 神戸・六甲に住み、神戸大付属住吉小学校(神戸市東灘区)に通っていた十一歳の野依にはさらなる湯川インパクトがあった。化学会社の研究者だった父金(かねき)は湯川と二カ月にわたる欧米への船旅を共にした間柄。「勉強よりも野山で遊ぶのが好き」だった少年に転機が訪れる。湯川と科学へのあこがれが、にわかに高まり、灘中・高校から京都大を経て化学者となった。

 野依は、化学の盲点を突く業績を残す。

 化学合成した物質には、組成は同じでも、右手と左手のような鏡映しの二タイプが存在するものがある。それぞれ性質が異なり、例えば「右」のサリドマイドには優れた催眠・鎮痛効果があるのに、「左」には胎児に奇形を促す恐ろしい作用があるのだ。

 右だけ、左だけを作れないか‐。困難だった問題を解決したのが、野依の開発したBINAP(バイナップ)分子触媒だった。合成の際、いわば左右それぞれの“鋳型”として働き、一方だけの「作り分け」が可能となったのだ。今では、香料や医薬品などの合成に幅広く用いられている。

 「科学者に欠かせないのは感性と知性」と野依は言う。「自然環境の中で育(はぐく)まれる感性と、社会環境が大きく影響する知性。この両方に恵まれた神戸の地で成長したことが将来を決定づけた」(敬称略)

2007/10/7
 

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