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兵庫人 第9部 われら地球人

(1-1)一族 懐深い神戸に根付く
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「父をアントレプレナー(起業家)として尊敬している」と話すキラン・セティ(右)と父のナリンダー・セティ=神戸市中央区(撮影・斎藤雅志)
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「父をアントレプレナー(起業家)として尊敬している」と話すキラン・セティ(右)と父のナリンダー・セティ=神戸市中央区(撮影・斎藤雅志)

「父をアントレプレナー(起業家)として尊敬している」と話すキラン・セティ(右)と父のナリンダー・セティ=神戸市中央区(撮影・斎藤雅志)

「父をアントレプレナー(起業家)として尊敬している」と話すキラン・セティ(右)と父のナリンダー・セティ=神戸市中央区(撮影・斎藤雅志)

■「異国」を吸収し前進

 頭に巻きつけたターバンと豊かに蓄えたひげは、誇り高きシーク教徒の証しだ。

 ナリンダー・セティ(78)が来日してほぼ半世紀になる。

 一九四七年、インド。英国からの独立運動と宗教間の対立で混乱を極め、ヒンズー教が多数を占めるインドと、イスラム教が圧倒するパキスタンの分離独立が決まった。

 ナリンダーはパキスタンとなった北部の軍人の家に生まれた。イスラム国家にシーク教徒の居場所はない。列車に乗り込みインドへ脱出した。「銃弾が飛び交う中、列車はすし詰めで入れない。仕方なく屋根にしがみついての大移動でした」

 インドでは自動車部品を日本から輸入・販売する仕事を手掛けた。だが当時の政府の政策では、輸入許可を取得してもすぐに期限が切れ、注文を取り付けた顧客に商品を届けられないこともしばしばあった。「シーク教では他人に迷惑を掛けないことが大切。約束は守らなければならない。日本の侍と同じです」

 ナリンダーはインドから日本への渡航を決心する。五九年のことだ。

 プロペラ機でムンバイからシンガポールなどを経て羽田へ。さらに寝台列車に乗り、取引先企業があった大阪へと向かった。関西入りしたナリンダーは、生活と仕事の拠点として神戸を選ぶ。国内有数のインド人コミュニティーがあり、国際学校も整備されていた。何より神戸にはシーク教寺院があった。

 やがて貿易会社「ジュピターインターナショナルコーポレーション」を設立、ビジネスを拡大していった。自動車メーカー「スズキ」のインド進出に際して、現地での合弁会社設立にかかわった。

 二男のキラン・セティ(42)は神戸生まれの神戸育ち。米ピッツバーグ大学でMBA(経営学修士)を取得し、金融や広告の世界での飛躍に夢を膨らませた。

 だが「仕事を手伝え」。父の一言で、神戸に舞い戻る。「大いに不満でした。いらつきましたよ」

 それでも持ち前のビジネス感覚を発揮。八五年のプラザ合意による円高では、海外から衣料品などを安く大量に仕入れ、大手小売店に売り込んだ。また、流ちょうな関西弁と頭の回転の速さに吉本興業から声が掛かり、テレビ番組にも出演した。

 キランと入れ替わる形で、長男のラビンダー・セティ(51)が渡米した。父親の会社の欧米担当として、インターネットの画像配信技術の開発や銀行、ガソリンスタンドの経営など幅広く展開する。

 二〇〇三年、キランは神戸青年会議所の理事長に選ばれた。外国人としては史上二人目の快挙だ。「日本で外国人がじろじろ見られないのは、神戸と東京・六本木だけ。神戸は外国文化を消化して、新たな力にしてきた歴史がある。僕自身がそれを体現しているじゃないですか」と人懐っこい笑みを浮かべる。

 インド系企業人の活躍が目立つようになると、キランにも講演や本の執筆話が舞い込む。週二回ほど出張に出るが週末は必ず神戸に戻る。「空港から帰る途中、光る海と山が見えるとほっとしますね」

 神戸から世界を見据える。進取の気性に富む神戸人の気概がのぞく。(敬称略)

2007/12/2
 

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