兵庫人 第10部 震災と歩む
■音楽で恩返しできた
「懐かしいなあ、神戸新聞」
「もんた&ブラザーズ」のボーカル、もんたよしのり(56)は開口一番、少年のような笑顔でそう言った。
神戸市東灘区出身。老舗寝具店の長男として生まれた。市立本庄中学、報徳学園高校を経て音楽の道へ。神戸は「思い出だらけの街」と言う。
その街並みが消えた。一九九五年一月十七日、阪神・淡路大震災。両親は東灘区のマンションにいた。大阪府箕面市の自宅から電話をかけ続けた。実家近くの阪神高速道路は横倒しになっていた。
ニュースは、被災地への車の乗り入れ自粛を呼び掛けていた。やがて両親の無事は分かったが、物資が届いていない公園の様子を伝える映像に我慢できず、飛び出した。武庫川を越えると街のにおいが変わった。別世界だった。
母校の東灘小には遺体が安置されていた。公園に物資を届けると、小さい子が「靴下が来た」と喜んだ。だが、人々は混乱していなかった。信号が消えても、車は道を譲り合っていた。水を差し出すと「もっと困ってるとこにあげて」と遠慮する人もいた。
「人間のものすごいピュアなとこ、打算のない関係。何かあれば、人にはそういうもんがむくむくと現れるんや、と確信した」
「ダンシング・オールナイト」が一世を風靡(ふうび)した八〇年、もんたは「ビジネス」というレールの上を走っていた。
何もかもが競争。音楽は経済の道具。歌うことが苦痛になった。逃げるように大阪に帰った。三十三歳のときだ。
三十代半ばから途上国を旅した。見知らぬ人の前で歌った。怪しい人間でないことを伝えると、家に泊めてくれた。皆、金とモノがある日本の人々より幸せそうに見えた。「なんで、おれらはこういう生き方ができへんねんやろ」
しかし、そんな「日本にない」と思っていた“心”が震災直後の神戸には、あふれていた。「なんや、旅なんかせんでもよかったんや」
震災の年の夏。メリケンパークで桑名正博、上田正樹らとコンサートを開いた。会場全体が歌った。そこにいる誰もが、心の中にたまった何かを吐き出していた。「音楽ってええな」と素直に思えた。自分を育ててくれた街に恩返しができた気がした。
震災から十三年‐。古里の風景は激変した。「仕方ない」とも思う。震災の傷跡が残ったままでは余計につらい。今も空き地を見ると、「大変なんやなあ」と胸が痛くなる。
もんたは言う。「自分の震災は外野の体験」と。震災のことを話すとき、自分の思いを的確に表現する言葉が見つからない。それでも、被災直後の古里で感じたものは、今も体の奥底に染み込んでいる。
もんたと同じように被災地で歌い、人生に深い影響を受けた男がいる。ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」の中川敬(たかし)(41)。震災翌月の二月、大阪から神戸へ向かった。(敬称略)
2008/1/6