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兵庫人 第14部 大空と大地と

(1-1)コウノトリとともに 羽ばたく姿、夢見て
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コウノトリの保護に人生の大半を費やしてきた松島興治郎さん。「鳥が好きというだけでやれる仕事でもなかった」と笑う=豊岡市百合地
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コウノトリの保護に人生の大半を費やしてきた松島興治郎さん。「鳥が好きというだけでやれる仕事でもなかった」と笑う=豊岡市百合地

コウノトリの保護に人生の大半を費やしてきた松島興治郎さん。「鳥が好きというだけでやれる仕事でもなかった」と笑う=豊岡市百合地

コウノトリの保護に人生の大半を費やしてきた松島興治郎さん。「鳥が好きというだけでやれる仕事でもなかった」と笑う=豊岡市百合地

■人生かけた野生復帰

 白地に黒を際立たせた翼を広げると、人の身長を超える大きなコウノトリ。「バサバサッ」。羽ばたく音が聞こえるほど近くを優雅に舞い、巣塔に戻っていく。

 昨年、四十六年ぶりにひなを巣立たせた親鳥が、今年は二羽の子育て中だ。

 「生きているうちに、ここまで来るという確信はなかった」。三十七年間、人工飼育に携わり、現在は豊岡市立コウノトリ文化館長を務める松島興治郎(66)は目を細める。

 豊岡市の円山川近くで生まれた。子どものころの日課は川での魚捕り。近くで獲物を狙っていた、大きな鳥の存在感を覚えている。県立豊岡高校時代、上級生に誘われて生物部へ。コウノトリ保護の機運が高まっていた時期で、生息数調査やひなの観察に参加したことも、後の人生を運命付けたのかもしれない。

 卒業後は、特産のかばん製造会社に勤務したが、一九六五年、二十三歳のときに再びこの鳥との付き合いが始まった。野外で絶滅寸前となったため、県が人工飼育に踏み切った年だ。松島は捕獲を手伝ったのを機に、その後、任意団体「但馬コウノトリ保存会」の専属飼育員になった。

 「鳥をかごに入れてから、誰も飼育する人がいないことが分かった。それで、成り行きというかね」

 待っていたのは、「下界を忘れるような」生活だ。「コウノトリ飼育場」の小屋に泊まり込み、二十四時間態勢で鳥に付きっきりになった。谷奥にある飼育場の雪は深く、冬は魚をリュックサックに入れてスキーを履き、餌やりに出向いた。重労働だった。

 野外の鳥は七一年に絶滅、飼育場でも自分が捕まえた鳥が次々と死んだ。毎年、卵は産まれるものの、ひながかえらない。鳥の体が農薬に汚染されており、近親交配の影響もあったことが後に分かった。

 しかし、周囲の期待と失望は大きく、記者発表の席ではマスコミと衝突もした。「旧知の記者さんに、最近は随分温和な表情になったと驚かれた。当時は鳥を守らねばとピリピリしていたんでしょう」

 耐え忍ぶ生活が限界に近づき、人々の関心もすっかり遠ざかっていた八五年。ロシアから鳥が贈られる話が降ってわいた。待ち切れず新潟空港まで出迎えに行った。その年、生まれたばかりの六羽の若々しい姿に「これはいける」と確信した。予感通り八九年、初めてひなが誕生した。四十七歳になっていた。

 「のめり込むたちというか、途中で投げ出せない性格だった。家族には申し訳ないことをしたけれど」。責任を果たすのにかかった歳月は四半世紀。「うまくいかなくても『おはよう。今日も元気だね』と声を掛ける鳥の存在があった。だから明日、来年へと日々を積み重ねられた」

 初のひなが生まれた二年後、二代目の責任者となる佐藤稔(44)が飼育員に就き、九〇年代、一気に鳥の数を増やした。放鳥の目安となる百羽超えを果たしたのは二〇〇二年のことである。(敬称略)

2008/5/4
 

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