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兵庫人 第15部 白球の記憶

(1-1)伝説の21球 孤高の左腕、敵は己
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阪神時代に数々の記録を打ち立てた甲子園球場(奥)を背に思い出を語る江夏豊さん=西宮市甲子園高潮町、ノボテル甲子園(撮影・内田世紀)
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阪神時代に数々の記録を打ち立てた甲子園球場(奥)を背に思い出を語る江夏豊さん=西宮市甲子園高潮町、ノボテル甲子園(撮影・内田世紀)

阪神時代に数々の記録を打ち立てた甲子園球場(奥)を背に思い出を語る江夏豊さん=西宮市甲子園高潮町、ノボテル甲子園(撮影・内田世紀)

阪神時代に数々の記録を打ち立てた甲子園球場(奥)を背に思い出を語る江夏豊さん=西宮市甲子園高潮町、ノボテル甲子園(撮影・内田世紀)

■〝神格化〟自負と重圧

 「たばこ、いいかな」。江夏豊(60)はショート・ホープをくゆらせながら「江夏の21球」の“その後”を静かに語り始めた。「自分の重荷になったんだ。あれから『泥沼』に入り込んでいった」

 一九七九年十一月、今はない大阪球場。近鉄との日本シリーズ最終戦で、広島のリリーフエース江夏は1点差の九回裏、無死満塁の大ピンチを切り抜ける。絶体絶命の場面で1球ごとに激しく揺れ動いた左腕の心情。故山際淳司のノンフィクション「江夏の21球」で明かされた事実は野球ファンに衝撃を与え、「神話」と化している。

 江夏は尼崎で少年時代を過ごした。園田中で野球部に入ったが、先輩から「生意気だ」と鉄拳を食らい、直情的に拳を返した。数カ月で辞めさせられ、陸上部に転じた。

 卒業後は就職するつもりだった。だが、江夏の不祥事とともに、陸上部に移っていた元野球部監督が、砲丸投げで鍛えられた豪腕に目を付けた。野球で名を上げ始めていた新鋭校・大阪学院大高に進ませた。

 その高校で本格的に野球の道に入った江夏は卒業後、ドラフト一位で阪神入り。プロ二年目にシーズン401奪三振のプロ野球記録を樹立し、七一年のオールスターでは前人未到の九者連続三振。そして、南海から広島に移って二年目。自身にとって初の日本シリーズで奇跡を演じた。

 日本一が懸かった最終戦の最終回、無死満塁‐。希望と絶望のはざまを投げ抜いた左腕は「神格化」された。「江夏は、どんなピンチでも抑える」。周囲は絶対の投球を求めた。自身にもリリーフ投手として強い自負が芽生えた。「あの場面を抑えたんだから」。過度の期待感と強烈な自尊心。「江夏の21球」の後、左腕は「21球の江夏」と闘わねばならなかった。

 「苦しかった。マウンドに立っている限り、重圧から抜け出したくても抜け出せない。野球という泥沼の中で、独りでもがいていた」

 広島から日本ハム、西武と渡り、八四年に自由契約となった江夏は翌年、米大リーグに挑む。当時三十六歳。日本球界に実績は十分に残していた。限界もささやかれていた。それでも単身、海を渡った。「完全燃焼したかった」

 江夏の挑戦から十年後に大リーグの舞台に立った野茂英雄。幾度も戦力外通告を受けながら現役を続ける。桑田真澄は三十八歳で夢を追った。清原和博は手術した左ひざの痛みをこらえ、復活に挑む。

 晩年に己を貫く彼らの生きざまは、伝説の左腕の影か。江夏は言う。「重荷は背負った人間にしか分からない」。頂点を極めた者だけが知る孤高感が、そこに漂う。(敬称略)

2008/6/1