兵庫人 第19部 伝統芸能に生きる
■「形重んじ」人間味
六月二十九日、満席に膨れ上がった東京のセルリアンタワー能楽堂。神戸の大蔵流狂言方善竹隆司(ぜんちく たかし)(35)、隆平(りゅうへい)(30)兄弟が初めて東京に乗り込んでの主催公演は、熱気にあふれていた。全国的な知名度の低さと梅雨空による不安は吹き飛んだ。「予想以上の反応。弥五郎から引き継いだ芸は関西だけではなく、もっと多くの人に見てもらうべきだと確信した」と隆司は言う。
善竹弥五郎(一八八三~一九六五年)。優れた人物描写と写実的な演技で、兵庫県でも狂言界でも初の人間国宝となった大蔵流狂言方だ。晩年、若いころ過ごした神戸に大阪から移り住んだ。「前に出ると、かしこまってしまう、怖い存在だった」。弥五郎の孫で兄弟の父二世忠一郎(ちゅういちろう)(67)は振り返る。「だが狂言となると、体調が悪くても、どんな場所でも、所作を加えて丁寧に教えてくれた」
弥五郎は、母の再婚相手だった大蔵流狂言方二世茂山忠三郎(故人)に厳しく鍛えられた。しかし弟の誕生で一転する。「一子相伝」が色濃い当時の能楽界。父は実子に愛情を注ぐ。正統な継承者から外された弥五郎は、自ら道を切り開く。努力と苦労を重ね、一九六三年に「善竹」に改姓、新たな家を起こした。
そんな祖父と父初世忠一郎(一九一〇~八七年)に仕込まれた忠一郎は、八〇年大阪文化祭賞、二〇〇一年大阪文化功労者知事表彰などを受賞。一九八五年には、全国初の演劇科を設けた兵庫県立宝塚北高校の講師に就任する。
後継者である兄弟への教えは「あざといことはせず、形を重んじる」に尽きる。六百五十年前に生まれた狂言は、人間の普遍的な姿を笑いで表現する。「笑わせるだけなら、現代まで生き残れない。形という枠組みがあるから伝統芸能としての今がある」
野村萬斎(まんさい)に始まる狂言ブーム。そんな中、忠一郎は兄弟をひたすら舞台に集中させた。地味な積み重ねが高く評価され、隆司に兵庫県芸術奨励賞や大阪文化祭奨励賞、隆平には文化庁芸術祭新人賞などをもたらした。
「台本を読み込むほどに面白さを引き出す発見がある」と隆司。隆平は「形だけ淡々と演じていては、お客さんを置いてけぼりにしてしまう。いかに人間味をにじませるかが課題」と研さんを怠らない。
生前、弥五郎は、ある雑誌に芸談を求められ、「父に教えてもらった通りに演じているだけ」と答えている。だが忠一郎は言う。「私は祖父や父のコピーを演じているわけではない。約束事を体で覚えるうちに、自分の思いが個性として醸し出される。芸風は時代とともに変化する」
弥五郎の名は、死去から四十年以上、誰も襲名していない。しかし「父には追い付けない」と終生、精進を続けてきた弥五郎の姿勢は、確実に受け継がれている。(敬称略)
2008/10/5