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兵庫人 第20部 東京で輝く

(1-1)県人会 鮮度訴えビール首位
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「小学校から帰ったら毎日、舞子の海で泳いでいた」と神戸を懐かしむ瀬戸雄三さん=東京都墨田区吾妻橋1、アサヒビール本社(撮影・大森 武)
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「小学校から帰ったら毎日、舞子の海で泳いでいた」と神戸を懐かしむ瀬戸雄三さん=東京都墨田区吾妻橋1、アサヒビール本社(撮影・大森 武)

「小学校から帰ったら毎日、舞子の海で泳いでいた」と神戸を懐かしむ瀬戸雄三さん=東京都墨田区吾妻橋1、アサヒビール本社(撮影・大森 武)

「小学校から帰ったら毎日、舞子の海で泳いでいた」と神戸を懐かしむ瀬戸雄三さん=東京都墨田区吾妻橋1、アサヒビール本社(撮影・大森 武)

■神戸「左遷」が転機に

 一九九九年一月、日本のビール業界の歴史が塗り替えられた。前年のビール出荷量でアサヒがキリンを上回り、首位に立った。かつてはシェアが9%台にまで落ち、存続も危ぶまれた。喜びに沸く東京の本社。社員らに囲まれ、社長だった瀬戸雄三(78)=現相談役=は涙にむせんでいた。

 神戸生まれ。九二年、社長に就いた。銀行出身のトップが続いた同社にとって、二十一年ぶりの生え抜きだった。就任時、会社は深刻な危機に直面していた。バブル期の過大投資が響き、借金が売上高の一・五倍にまで膨らんでいた。空前のヒットとなった「スーパードライ」の売れ行きにも陰りが見えつつあった。

 瀬戸が選んだのは、ドライに戦力を集中させる策だった。ほかの商品は捨て、一点突破で「拡大均衡」を狙う。

 取引先や消費者の声から「ドライはまだ売れる」との感触をつかんでいた。ただ、勢いを取り戻すには「辛口」「キレ」に続く、新たな価値を見いだす必要があった。

 ヒントはスーパーでの妻の行動から得た。豆腐を棚の奥から取る‐。理由を聞くと、事もなげに「奥の方が新しいから」と。ほかの人も「食べ物はやっぱり鮮度」と言う。当たり前なのに、ビール業界では忘れがちな視点だった。

 出荷から店頭までの期間を短くし、在庫を一掃した。「鮮度」を消費者に訴えた。なかなか結果は出なかった。焦った。社長就任から十一カ月目、ようやく数字が上向いた。「いける!」。社員を奮い立たせ、首位に駆け上がった。

    ◆

 神戸三中(現長田高)から慶応大に進み、アサヒビールへ。貿易商だった父は、いつも「先生になったらあかん」と説いた。「先生」と呼ばれると、人間はだんだん傲慢(ごうまん)になる。そう教えられた。

 入社三年目。大阪勤務から神戸に移った。左遷だった。直情的な性格が災いし、支店長との折り合いが悪くなったためだ。発祥の地・大阪と違い、神戸は厳しい市場だった。シェアが低く、酒販店に相手にされなかった。それでも足を運び続け、顧客の輪を広げた。十四年間勤めた後に気付いた。「支店長は自分の傲慢さを見抜き、神戸で鍛え直そうとしてくれたのだ」と。

 神戸で身に付けた、驕(おご)らない姿勢。ビールシェア首位になっても「みんなの功績」と社員をたたえ、自身はすぐに社長から退いた。「長いこと居座っても傲慢になるだけ。そうなると人間、終わりや」

 昨年十一月、兵庫ゆかりの首都圏在住者らでつくる「東京兵庫県人会」の会長に就いた。就任早々、会員数拡大の号令を掛けた。「徳島や広島は会員が三千人を超えるのになんで兵庫は千百人なんや」

 神戸時代に兵庫県内をくまなく回り、兵庫の多彩さ、奥深さを知っていた。「文化や歴史が違う地域の人たちが交流すれば、得難い知識や情報が集まるはずだ」。三十周年を迎える県人会。「この人に会ってよかった」と思えるような場へと奮闘する。(敬称略)

2008/11/2
 

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