兵庫人 第23部 盤上に生きる
■走り続ける17世名人
おやつのイチゴにフォークを刺した瞬間、互角の形勢を大きく損ねる見落としに気が付いた。
一九八三年六月、神奈川県箱根町であった将棋の名人戦七番勝負第六局。タイトル奪取にあと一勝に迫った挑戦者の谷川浩司(こうじ)(46)は、イチゴの味を覚えていない。何食わぬ顔で「気が遠くなるような長い三十秒」を待った。次の一手、加藤一二三名人は最大のチャンスを見逃した。
午後十時三十二分、中原誠の二十四歳を塗り替える史上最年少名人が誕生。二十一歳のヒーローは謙虚に語った。「(名人位を)預からせていただきます」
◆
五歳の時、兄とのけんかに手を焼いた父親から兄弟でできる将棋盤セットを渡された。負けると、すべての駒に歯形を付けるほど勝敗にこだわり、小学校低学年で詰め将棋を作り始めるほど「八十一升の世界」にのめり込んだ。
中学二年でプロに。危険な駒損を恐れず最短手数で相手玉を一気に追い詰める姿勢がファンを魅了。「安全・確実に勝つ」という終盤の常識を変えた。いつしか「光速の寄せ」と呼ばれるようになった。
好きな言葉は「名人危所に遊ぶ」。プロの誇りが妥協を許さない。
最短でも五年かかる名人位を六年で獲得し、九一年度に七大タイトルの四冠を手中にした。しかし若き谷川の活躍に刺激された八歳年下の羽生(はぶ)善治(よしはる)が迫っていた。九四年度、羽生は六冠を制覇し、残すは谷川の王将のみとなった。
将棋界初の七冠制覇が注目される中、七番勝負第一局は谷川が勝利。そして、第二局を控えた九五年一月十七日、阪神・淡路大震災が発生した。
妻と暮らす六甲アイランドの自宅は物が散乱。翌日、対岸の大型タンクからガス漏れがあり、近くの学校に避難した。「死を意識すると同時に己の無力さを痛感した」
発生三日後、大阪で王将戦とは別の対局があった。盤の前に座ると「生きて将棋が指せる喜びが込み上げてきた」。悲観的だった形勢判断が、しばし楽観的に変わった。
全国から届く励ましの手紙にも支えられ、王将戦はフルセットの末に防衛。「自分にできるのは将棋しかない。あれほど神戸を意識して戦った経験は、かつてなかった」。二〇〇五年から神戸大使。「住み続けることが大切。愛する神戸の復興を見届けたい」
◆
九七年の名人復位で「十七世名人」の資格を得た。〇五年度からタイトルはないが、棋士番付といえる順位戦では最上位のA級で最年長にして唯一の四十代として戦う。
記憶力の陰りを自覚し、二年前から研究ノートを付ける。闘志は常に盤上にある。
「五十代で名人獲得。志は高く」。夢をかなえれば史上最年長記録となる。(敬称略)
2009/2/1