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新兵庫人 第3部 長距離王国

(1-1)高校駅伝 名門2校 築いた伝説
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高校駅伝で「西脇」の名を全国区にした西脇工前監督の渡辺公二さん(右)。2月の第1回西脇多可選抜新人高校駅伝には、報徳総監督の鶴谷邦弘さんも駆け付けた=西脇市内
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高校駅伝で「西脇」の名を全国区にした西脇工前監督の渡辺公二さん(右)。2月の第1回西脇多可選抜新人高校駅伝には、報徳総監督の鶴谷邦弘さんも駆け付けた=西脇市内

高校駅伝で「西脇」の名を全国区にした西脇工前監督の渡辺公二さん(右)。2月の第1回西脇多可選抜新人高校駅伝には、報徳総監督の鶴谷邦弘さんも駆け付けた=西脇市内

高校駅伝で「西脇」の名を全国区にした西脇工前監督の渡辺公二さん(右)。2月の第1回西脇多可選抜新人高校駅伝には、報徳総監督の鶴谷邦弘さんも駆け付けた=西脇市内

 「緑」と「濃紺」二つのユニホームが、同時に京都・西京極陸上競技場に現れた。1989年、都大路を舞台にした第40回全国高校駅伝男子は、兵庫の報徳と西脇工によるアンカー勝負にもつれ込んだ。残り200メートル、報徳の村松明彦(37)がスパート。西脇工の結城和彦(36)は及ばない‐。

 報徳、2時間4分49秒。西脇工、同50秒。共に日本高校最高記録を上回るレースは、かつてない僅差(きんさ)で決着した。

 「兵庫を制する者は全国を制す」。昭和末期から四半世紀にわたる両校の激突は、高校駅伝界にこの言葉を生んだ。当時の西脇工監督は渡辺公二(71)、報徳は鶴谷(つるたに)邦弘(65)。

 鶴谷は67年、日体大を卒業し母校報徳に。同大学の先輩・渡辺が西脇工に異動したのは、翌年。やがて2人は絡み合うように互いを追い始める。77年、西脇工が県駅伝で飾磨工の3連覇を阻み初制覇すると、78年に報徳が優勝。全国駅伝では81年に報徳が、82年に西脇工が初の頂点に。西脇工は大会史上最多8度の優勝を遂げ、報徳は史上初の3連覇を含む6度の栄冠に輝いた。

    ◆

 渡辺は福岡県中央部の嘉麻(かま)市出身。保健体育教諭として社高(加東市)などで勤務後、68年に西脇工へ。西脇市にある同校は当時、学園紛争のあおりで荒れていた。

 ある時、バイク事故で教え子が亡くなった。その母親から「ぐれる暇もないほど部活動で生徒を鍛えてやって」と涙ながらに言われた。さらにほかの生徒からは「先生、僕らには自慢できるものが何もないやんか」と訴えられた。渡辺は決意した。「生徒が熱くなれるものをやろう」。学生時代に打ち込んだ陸上の部活動指導に乗り出した。

 休部状態から部員を集め、やっと出場できた県駅伝東播予選は散々な結果だった。だが「一度始めたらとことんやらんと気が済まん」と逆に燃えた。“鬼”となって毎日グラウンドに立ち、選手の生活態度にも気を配った。

 全国初制覇以降、報徳に勝てない昭和時代を経て、平成に入って7度も優勝した。隆盛のさなかにあっても選手に願ったのは「競技の勝利者より人生の勝利者になってほしい」。かたくななまでに責任・協調・忍耐、そして感謝の念を持つ大切さを説き続けた。

 駅伝はミスがタイムに表れるため、個人に掛かる重圧が大きい。心身共に強い選手をそろえたチームこそが勝つ。西脇工の最多優勝は渡辺の教えが結実した証しだった。

 卒業生ではシドニー五輪女子マラソン代表山口衛里(えり)(36)や、男子マラソンの小島(おじま)宗幸(33)・忠幸(32)兄弟ら、多くの選手が世界へ羽ばたいた。

 渡辺は今春、41年勤めた西脇工を退職し、教え子でコーチの足立幸永(こうえい)(46)に監督を譲った。渡辺が信念を貫いた日々は伝統という「襷(たすき)」と化し、受け継がれた。(敬称略)

2009/6/7
 

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