新兵庫人 第4部 祭りの血脈
締め込み姿の男たちが群れ、祭り屋台を担ぎ上げる。筋肉が隆起した無数の腕に支えられ、神々しい巨体が宙を舞う。直木賞作家の車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)(64)=東京都文京区=は、この光景にあこがれた。
秋。故郷の播磨路は祭り一色に染まる。「灘のけんか祭り」で知られる兵庫県姫路市白浜町、松原八幡神社の秋季例大祭。毎年10月14、15日に旧灘7カ村が繰り広げる屋台の練り合わせ、神輿(みこし)のぶつけ合いは、力強く、美しい。
車谷は、この灘から3キロほど西、市川を渡った兵庫県姫路市飾磨区下野田に生まれた。当時、地元には屋台がなかった。後に姫路城の撮影で知られる写真家となる北村泰生(たいせい)(67)がいとこで、灘の生まれだった。幼いころ、北村に連れられ、祭りを見に行った。氏子が呼吸を合わせ、屋台と一体の生き物になって境内を練る。
だが、よそ者は担げない。「灘の男」へのあこがれは、行き場のない悔しさとなって膨らんだ。夜になっても躍動を続ける屋台、にぎやかな囃子(はやし)。灘を背にし、市川の橋を渡る。車谷は暗い道を帰らねばならなかった。「淋(さび)しい道を歩いている間に、私はいつの間にか小説家になってしまった」
車谷は続ける。「祭りの傍観者ではなく、実行犯になりたかった。それが私にとっては小説を書くことだった」。原風景のけんか祭りを、何度も随筆に描いた。
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慶応大を卒業した車谷は私小説作家を志すが、挫折して帰郷する。「下足番をして生きていけ」との母の言葉をあえて真に受け、7年半、神戸や尼崎などで旅館や料亭の下働きとして暮らした。
編集者の激励を受けて再上京した後も、長く日が当たらなかったが、自らの劣等感をさらけ出し、高利貸や自殺した身内をモデルにわが身をえぐる私小説を書き続けた。
「書くたびに、人一人を殺す覚悟だった。『真・善・美』を説くのが学者なら、世の『偽・悪・醜』を書くのが作家。文士なんて人間のくずだよ」。自嘲(じちょう)とも自負とも受け取れる言葉を口にする。
自身を投影させた流れ者の男と、泥の中でもがくように生きる女との逃避行を描いた「赤目四十八瀧心中未遂」が直木賞を受賞。53歳だった。
「あれは99%うそ」。映画化もされた代表作について、さらりと言う。自作の神髄は「虚実皮膜」。芸術は真実と虚構のはざまにあるという近松門左衛門の芸術論だ。
虚実入り交じった小説を書き続けた車谷は、知人から相次いで名誉棄損で訴えられ、59歳のとき、「凡庸な私小説作家廃業宣言」を出す。
その車谷が新たな境地を開いたのが、他人への取材を基にした「聞き書き小説」という手法。第一作は、幼いころからあこがれた「灘の男」への賛歌だった。(敬称略)
2009/7/5