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新兵庫人 第7部 絆@東京

(1-1)商売300年 酒で支える江戸の粋
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300年にわたり、東京で灘の酒を扱うぬ利彦。「瓶詰めになる前は、この屋号入り容器で配達していたそうです」と語る中澤彦七さん=東京都中央区京橋2(撮影・山崎 竜)
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300年にわたり、東京で灘の酒を扱うぬ利彦。「瓶詰めになる前は、この屋号入り容器で配達していたそうです」と語る中澤彦七さん=東京都中央区京橋2(撮影・山崎 竜)

300年にわたり、東京で灘の酒を扱うぬ利彦。「瓶詰めになる前は、この屋号入り容器で配達していたそうです」と語る中澤彦七さん=東京都中央区京橋2(撮影・山崎 竜)

300年にわたり、東京で灘の酒を扱うぬ利彦。「瓶詰めになる前は、この屋号入り容器で配達していたそうです」と語る中澤彦七さん=東京都中央区京橋2(撮影・山崎 竜)

 生粋の江戸っ子である。

 「家を3度建て替えられたら一人前の江戸っ子だと言うね。せっかく構えた家が火事や震災に遭うと、出身地に帰った人も結構いたらしいから」。変ぼうし続ける大都市で、商売を続けるのは大変だ。

 中澤彦七(67)は東京・日本橋近くで約300年続く酒類卸売業「ぬ利彦(ぬりひこ)」の社長。歴代当主が「彦七」を襲名し、中澤は九代目に当たる。

 初代は摂津国・三田出身。江戸の繁栄を伝え聞き、藩主・九鬼家の参勤交代の列に加わってやって来た。江戸時代中期の1717年に酒の仲買商を始め、当時の店名「塗屋(ぬりや)」の彦七がそのまま今に続く社名になった。

 江戸時代、現在の神戸市灘区から兵庫県西宮市にかけて広がる灘五郷で造られた酒は上方からの「下り酒」として江戸っ子に珍重された。船で運ばれた酒樽(さかだる)の味を調べ、値を決めるのが仲買商。交渉が成立するたびに手を打ち合わせた「新川締め」は今、ぬ利彦主催の行事でしか見ることができない。宮内庁に酒類を納入する「御用達」でもある。

 そんな名門にも数々の危機があった。明治維新では、幕藩体制下の大名に融資していた金融業者が相次いで倒産した。金融業も営んでいたぬ利彦は本業の酒類卸に集中し、危機を乗り切った。

 300年間、江戸で商売を続けるこつは何か。

 「会社を大きくしないこと」。中澤は即答した。家訓があるわけではない。歴代トップが受け継ぐ肌感覚だ。

 組織が大きくなれば“倒産の芽”が増える。「会社がつぶれたら先祖代々の資産なんて吹き飛ぶ。ほどほどがいい」。年商は約100億円、社員は200人にとどめる。

 中澤はただ会社を守っているのではない。慶応大を卒業後に跡取りとして入社。すぐに酒販業界の変化を感じた。

 「戦後、清酒はコメを原料にした農産物ではなく、工場でつくる工業製品になっていた」と、当時を振り返る。

 大量生産は安売りを加速させる。会社を守るため、効率経営の最新理論を学ぼうと渡米。大手コンピューター会社で修業し、ぬ利彦にシステム開発部門を新設した。今や経営の第二の柱に育ったが、「酒類卸はやめない。家業ですから」と言い切る。

 初代の出身地である兵庫は中澤の心のよりどころ。神戸市北区に代々続く中澤家の「総本家」とは濃い親せき付き合いがあり、近くの墓にはぬ利彦の歴代当主が眠る。

 酒造りの本場と酒の最大消費地をつなぐ、時空を超えた絆(きずな)。「相撲に祭り、吉原の遊郭まで、江戸の文化は灘の酒抜きに語れない」

 その言葉には、世界有数の都市で代々灘の生一本を売る男の誇りが宿る。(敬称略)

2009/10/4
 

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