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新兵庫 第17部 戦後65年の夏に

(1-1)生きる原点 無念の死 ペンで弔う
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「神戸は多元的な価値を認める開かれた町。自由な生き方を学んだ」と内橋克人さん=神奈川県鎌倉市の自宅(撮影・立川洋一郎)
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「神戸は多元的な価値を認める開かれた町。自由な生き方を学んだ」と内橋克人さん=神奈川県鎌倉市の自宅(撮影・立川洋一郎)

「神戸は多元的な価値を認める開かれた町。自由な生き方を学んだ」と内橋克人さん=神奈川県鎌倉市の自宅(撮影・立川洋一郎)

「神戸は多元的な価値を認める開かれた町。自由な生き方を学んだ」と内橋克人さん=神奈川県鎌倉市の自宅(撮影・立川洋一郎)

 怒り。むなしさ。屈辱‐。焼夷弾(しょういだん)の波状攻撃にさらされ、業火を逃れた空襲の体験を、どう表現するか。言葉を探すうち経済評論家の内橋克人(78)はおえつを漏らした。黒こげの死体が今、眼前に折り重なっているかのように。

 12歳だった。生まれ育った神戸・須磨の辺りは、1945年3月17日と6月5日の2度の神戸大空襲に遭う。

 盲腸で入院していた3月、母親のように接してくれていた女性が命を奪われた。防空壕(ぼうくうごう)でいつもなら自分がいた一番奥に彼女が座り、焼夷弾が直撃した。自分を責めた。

 6月の空襲の直後、燃える街を駆けた。塀の下に爆風で吹き寄せられた黒い死体の連なりを見た。赤ん坊もいた。妙法寺川の国鉄高架下のよどみには、おびただしい人間が浮き沈みしていた。炎に追われ、川に飛び込んだ人たちの末路だった。

 あのとき見たこと、分かったことがある。「これが許されていいのか。力のある者と、無力な者と、世の中には、その二つしかない」。どちらによって立つのか。それが内橋の「原点」となった。

 57年から10年間、神戸新聞の経済記者をした。「自分の目で確かめろ」と先輩記者にたたき込まれた。フリーになった後も現場重視の教えをかたくなに守った。現場で技術の種を植えた人々を描く「匠(たくみ)の時代」が出世作となる。

 90年代から新自由主義、市場原理主義に警鐘を鳴らし続けた。「守旧派」などと中傷を浴びても規制緩和万能論への批判を緩めず、小泉改革の帰結としての格差と貧困を予見した。

 内橋は、自らの論を「怒りの経済学」と評する。「いつも怒っているから、ぶれようがない」と。何に怒るのか。

 「時代の一番苛烈(かれつ)な風は社会的弱者に向かう。いつも被害が集中する。それは、あってはならないこと」

 根底に、降り落ちる焼夷弾をはね返せず、逃げ惑った体験がある。「木造家屋を焼き尽くし、いかに効率よく人を殺すか。私たちが、その標的だった」。市場原理主義は、人の命を預かる医療さえ「効率」でふるいにかける。戦争の思想と同根ではないか。内橋は、そう見透かす。

 還暦を超えるまで戦争体験は語らなかった。「日本人は一人残らず、誰かの身代わりがあって、この世に存在している」。そう気づき、やっと話せるようになった。空襲の街で、出征した戦地で、焼かれ、撃たれ、沈められ、飢え、絶命した誰か。預かった魂を忘れていいものか。

 取材し、書く。第一線に立ち続けて53年になる。「つぐなうには、書くほかない」。戦後65年。内橋の戦争は終わっていない。(敬称略)

(社会部・宮沢之祐)

2010/8/1
 

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