新兵庫人 第23部 不屈の挑戦者
「俺は昔から人と違う生き方を好む人間。車いすという少数派の生き方を選べたのはまさしく運命やったんかな」
2000年パラリンピックシドニー大会で銀、04年同アテネ大会で銅。車いす男子800メートルで2大会連続のメダルを獲得し、障害者スポーツのプロの道を切り開いてきた廣道純(ひろみち じゅん)(37)。神戸で車いすランナーの基礎を築いた軽妙な関西弁の先駆者は、運命の日から、人生はプラスばかりだと言い切る。
堺市出身。幼いころから負けず嫌い。口癖は「何かあったら自分で責任取るわい」。中学からアルバイトで小遣いを稼いだ。朝帰りを繰り返していた高校1年の秋、無免許で乗り回していたバイクが転倒。目が覚めると病院のベッドにいた。足が動かない。脊髄を損傷していた。
「純、このままでいいと思っているのか」。父親が出勤前に張っていた部屋の張り紙の言葉を思い出した。
「父ちゃん、ごめん」。自らの思い上がりを恥じると同時に、安堵感(あんどかん)に体が震えた。「俺は助かった。生きてるんや」
絶望はなく、「この経験をどう生かすか」という思いでいっぱいだった。そんな廣道に理学療法士は、障害者スポーツ施設がある大阪・長居公園に行くことを勧めた。レーシングカーのような車いすに乗って走るランナーたち。そのスピード感に触れ、走りたいという衝動が湧いてきた。
神戸の職業訓練校に通いながら、車いすレースの練習を重ねた。最初に勤めた会社は月収10万円で、家賃は5万円。弁当をつくって生活費を切り詰める日々だったが、仲間と夢を語らいながら、レースを続けた。「あの時代があったから、どんな状況でも走り続ける自信が付いた」
神戸での8年間に培った反骨心と体を基礎に、パラリンピックなど国内外のレースを重ねる廣道。現在は拠点を置く大分で毎日約30キロを走る。北京大会でメダルを獲得できなかったことから練習を見直し、体が重くなって車いすの進みを鈍くするウエートトレーニングはやめた。チューブなどを使って体の奥にあるインナーマッスルを鍛える。トップスピードに乗ってから、きつい後半にがんばれる強い体をつくることが目標だ。
約20社からの援助や年間約30件の講演で生計を立てる。不況下でスポンサー獲得は至難の業。門前払いは当たり前で、年収は時に数百万円単位で変動する。それでもプロにこだわり、視線は既に12年ロンドン大会に向かう。
「生きることは誰だって大変なこと。俺はその大変さを克服することが面白いし、たっぷり生きないと命に失礼や」(敬称略)
2011/2/6