「韓国にも、北朝鮮にも、日本にも苦しめられたわ…」。戦前から神戸に暮らすハルモニ(韓国語・おばあさん)がつぶやいた。
植民地支配以降、日本に渡った朝鮮人は、国や時代に翻弄(ほんろう)されながら過酷な歴史を刻んだ。戦後70年の今日もヘイトスピーチ(憎悪表現)にさらされる。
異文化を認め合い、共に生きる地域社会を探るため、まずは、ハルモニの体験に耳を澄ましたい。
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JR新長田駅南。デイサービスセンター「ハナの会」には在日コリアン1世が集まる。
金吉冬子さん(89)は1926(大正15)年、韓国・釜山近郊の農家に生まれた。8人きょうだいの3番目。12歳のころ、山口県内の軍需工場で働く父親の後を追って来日した。
日中戦争に突入し、労働力不足が顕在化したころだ。強制徴用があったとされる時代だが、どのような経緯で父親が日本で働き始めたかは知らない。
だが、「あのころは生涯で最も暗い時期や」とうつむく。「朝鮮の女の子は、15歳になれば慰安婦にされる」。そんなふうに言われ、14歳のとき10歳上の同胞と一緒になった。
朝も夜も山奥で炭焼きする生活。「嫌で嫌で毎日泣いていた。もう海に身を投げようかとも思ったよ」
日本各地が米軍の空襲におびえた45年3月、山奥で一人、長男を産んだ。戦後は4人の子どもを育てるため、木材の加工やら何でもやった。
敗戦後、日本は米軍の占領下に。在日コリアンはこぞって祖国を目指した。59年には日本と北朝鮮の赤十字社が、北朝鮮への帰還事業を開始。夫の兄から「一緒に帰ろう」と誘われたが、断った。北朝鮮の義兄とは、いつごろからか連絡が取れなくなってしまった。
40歳で大阪、60歳で神戸に移り住み、長男の靴の会社を手伝った。阪神・淡路大震災で家も工場もつぶれ、二重ローンで再建した家に、息子らと暮らす。「何とか食べてるくらいやけど、嫁も孫も優しい。今が一番幸せ」
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森本相必(そうひつ)さん(88)は、朝鮮半島南東部の慶尚南道出身。母に手を引かれ、9歳のとき神戸駅に降り立った。
「女は学校にいかんでいい」と言われ、日本語も分からないまま子守の仕事に就き、13歳で大阪の紡績工場に住み込んだ。学校には一度も通っていない。
戦後、両親や妹は韓国に帰った。「とにかくお金がない。韓国に帰っても日本にいても貧しい。親に苦労する姿を見せるよりましやから」と、日本に踏みとどまった。
ダムや道路工事の現場で働き、3人の子どもを育て上げた。「字を知らんかったら力仕事しかない。日曜も祝日も働いた」。銀行や役所の手続きもある。名前と住所だけは書けるようにした。
震災で自宅を失い、今は神戸市須磨区の公営住宅に1人で暮らす。長年の力仕事で悪くした脚が痛み、坂道はつらい。同じような境遇のハルモニが集まる「ハナの会」でのおしゃべりが楽しみだ。
「旦那か? あの世に送り出して何年になるかいな。いい人紹介してや」。苦労を吹き飛ばすように、豪快に笑った。(長嶺麻子)
【在日コリアン】 20世紀前半、朝鮮半島から日本に渡ってきた人やその子孫ら。日本国籍を取得した人も多く、韓国籍・朝鮮籍は全国で約50万人(2014年12月末)。兵庫県の約4万7千人は、大阪、東京に次ぎ3番目に多い。
2015/7/29