埋もれた歴史 掘り起こす
三木飛行場。太平洋戦争末期、三木市と稲美町、加古川市にまたがる地に、それは確かに存在していた。
現在は農地と工場が広がるが、国土地理院の地図に記された「旧飛行場」の文字と、真っすぐに伸びる道路が面影を残す。人々の記憶からも薄れつつあった二十数年前、この戦争遺跡を掘り起こす活動を始めたのが「三木飛行場を記憶する会」の郷土史家宮田逸民(としたみ)(59)=三木市大村=だ。
「三木市史でも触れていない。地元は記録を残す気があるのか」。大政翼賛会の広報担当で、三木飛行場に派遣された郷土史家の大家、故落合重信からそう指摘された。宮田は「手遅れになる前に」と、関係者5人から聞き取りをした。
落合をはじめ、暗号通信担当、特別攻撃隊長、建設に動員された女性、大工。生々しい証言を「三木史談第29号」(1993年、三木郷土史の会)にまとめた。全員が95~2010年にこの世を去り、貴重な記録となった。
その後しばらく調査は中断したが、5年ほど前、鶉野飛行場(加西市)、加古川飛行場(加古川市)の展示を続ける郷土戦史研究家上谷昭夫(76)=高砂市=から「協力するので、一度展示をしたらどうか」と勧められ、記憶する会を結成した。2012年に三木市役所で第1回展を開いた。
飛行場で使われたのと同じ偵察機の主輪(タイヤ)や境界を示す石杭(いしくい)、終戦後の航空写真などを展示した。「三木に飛行場があったの」と驚く人が多く、大きな手応えを感じた。
第1回展と前後して、聞き取りを継続。知覧特攻平和会館(鹿児島県)にも足を運び、三木で訓練した特攻隊員の資料を丸1日かけて書き写した。米軍の空爆についても、米国防総省のマイクロフィルムを国立国会図書館から取り寄せた。
展示を重ねるごとに資料や証言が寄せられた。ことし5~6月には特攻隊に焦点を当てて展示し、隊員の経歴や遺書を並べた。
「三木で訓練した人が特攻で亡くなっている。この歴史を地元の人に知ってもらいたかった。隊員への供養になったと思う」。宮田はそう振り返る。
そんな宮田には一つの夢がある。飛行場があったことを示す碑を跡地に建てるというものだ。「見果てぬ夢ですけどね」。少年のような目で笑った。(敬称略)
(大島光貴)
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15日で終戦から70年を迎える。神戸や明石のような大規模空襲は免れたが、三木も飛行場が造られ、戦争に深く関わった。この夏、三木飛行場の関係者を訪ね歩いた。
2015/8/11