連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

  • 印刷
拡大

 「これ、どう読むん?」

 「あんた、字上手やなぁ」

 隣同士の談笑が教室に響く。

 「はい、ちゃんと聞いてよ!」

 すかさず教師が割って入る。

 夕暮れが近づく8月の午後6時。阪神間唯一の夜間中学「尼崎市立成良中学校琴城分校」には、夏休みにもかかわらず、何人かの生徒が毎日補習に足を運ぶ。

 ありふれた学校の風景。違うのは生徒の年齢。そして素性。貧困、親の国籍、戦争…。さまざまな理由で義務教育の学びを絶たれた人たちが、肩を寄せ合い日本語や各教科を学ぶ。

 日本語は習熟度別にクラスが分かれ、教室に並ぶ机の端には、名前が書かれた紙が、セロハンテープで貼られている。中国、韓国、日本名。その席の一つに座る中国残留孤児の宮島満子(79)=尼崎市=が静かに口を開く。

 「この学校が、私を日本人に戻してくれた」

■  ■

 長野県で生まれ、3歳の時、父母や兄ら家族11人で旧満州(中国北東部)に渡った。9歳で終戦。戦後の混乱で両親ら家族8人を失った。「生きて日本に帰ろう」。2人の兄に諭され日本人収容所に入った。やがて奉天(瀋陽)に住む中国人養父母に預けられた。

 日本に帰りたくて逃げ出して疎まれ、別の奉天の養父母に買われた。息子3人を持つ裕福な家庭。「王玉蘭」と命名された。待望の娘を得たことを喜んだ夫婦に本当の家族のようにかわいがられた。

 学校に通い初めて数カ月後、すぐに日本人とばれて、「日本(リーベン)鬼子(クイズ)」とさげすまれた。一家は何度も転居し、スパイ容疑で留置場にも入れられた。早く中国人にならなければ身が危なかった。「必死で中国語を覚えた。人前で日本語は一切話さなかった」

 次第に忘れていく日本語。それでも、11人の家族の名前だけは忘れたくなかった。1人になると、地面に家族の名前を書いては思い出し、そして回りにばれないよう、すぐに土をこすって消した。

 20歳の時、美術館で働く中国人の夫と結婚。3人の子どもに恵まれた。やっと手に入れた幸せ。平穏な日々が訪れると思っていた。しかし、新たな動乱が宮島を襲う。1965年から始まった文化大革命で夫は美術館を去り、家族で夫の生まれ故郷・遼寧省へ逃げた。

 72年、日中国交正常化で残留孤児の訪日調査が始まると、宮島の心は大きく揺れた。「自分が生まれた故郷を一度でいいから確かめたい」。夫に内緒で肉親捜しを始めた。(敬称略)

■  ■

 「言葉の壁」に翻弄(ほんろう)された半生。戦争により学びを絶たれた人々は、学ぶとは何か、そして、生きるとは何か、を確かめるように足しげく夜間中学に通う。戦後70年の学舎(まなびや)で出会った人々の今を報告する。(吹田 仲)

〈メモ〉今年の在校生は49人

 琴城分校 1951年4月から75年3月までの期間に、尼崎市内で義務教育未修了者が約500人(市調査)いることが分かり、その受け皿として76年4月に開校した。尼崎市立成良中学校(西長洲町2)の分校として南城内の旧市立教育研究所の建物を使い、授業を行っている。今年5月1日現在の在校生は49人。

2015/8/29
 

天気(9月9日)

  • 33℃
  • 27℃
  • 30%

  • 34℃
  • 24℃
  • 40%

  • 35℃
  • 28℃
  • 20%

  • 35℃
  • 26℃
  • 20%

お知らせ