太平洋戦争末期の1945年4月、旧制神戸一中(現神戸高校)野球部のエースだった島澄夫さんは、爆弾を抱えて敵艦に体当たりをする神風特攻隊として、飛び立った。慶応大学在学中の学徒出陣だった。若者はどんな思いで死んでいったのか。最後の日々をたどる。(森 信弘)
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昨年9月。戦時資料を収集、分析する大分県の市民団体「豊の国宇佐市塾」は、戦後75年に合わせた写真展の準備中にある発見をした。プリントとネガ約2千枚に及ぶ膨大な資料の中、軍刀を持ったりりしい青年の写真の裏に、鉛筆の走り書きがあった。
「こんなまけいくさで死ぬのはいやだ」出口まで。
「そんな大きい声でいうな。きこえたらヤバイ」
判読すると、そう書かれていた。「島 S20.4.16 特攻」とも記され、島さんと同じ宇佐海軍航空隊(大分県宇佐市)の特攻隊にいた「中ムラ」という名が添えられていた。ほかの記述も踏まえ、同塾は九州大名誉教授中村正夫さんによる証言と特定。記者が大学に問い合わせると、既に亡くなっていた。
メモは戦後、生き残った隊員が学徒兵の資料を集める中で記録した可能性がある。同塾は「『出口』というのは兵舎の出口」と推測。ほかの部隊の者に聞かれてはまずいと、島さんの発言を中村さんがたしなめているように読める。
島さんについて聞き取りを重ねた元海軍主計大尉の潁川(えがわ)良平さん(99)=宝塚市=が言う。
「『まけいくさで-』は正直な気持ちだと思う。勇ましくしていても、負けることは分かっていたのだから。澄夫さんの遺書の後半は字が乱れて読めなくなっていた。それくらい、苦しんだのではないか」
島さんは4人兄弟の次男だった。「神戸一中・神戸高校野球部九十年史」によると、エースとして活躍した。打たれるとむきになったが、太っ腹な親分肌の面があったという。
慶応大学に進学後、「海軍第14期飛行予備学生」として召集。45年4月16日、特攻隊として第二国分基地(鹿児島県霧島市)から沖縄近海へ出撃した。
エンジンの不調でいったん引き返した後に再び飛び立ち、戻らなかった。
24歳だった。
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当時、潁川さんは偶然、出撃の決意をラジオで聞いている。乾パンや軍服を製造する「第二海軍衣(い)糧廠(りょうしょう)」(姫路市)の暗い当直室で静かな夜を過ごしていたときだった。
「神戸出身の島、少尉であります」。ラジオの声を耳にしたとき、島さんだ、と直感した。面識はないが、母親同士が親友で、学業優秀と聞かされていた。
「誠に簡単ではございますがこれをもっておわります」。淡々としつつ、育ちの良さを感じさせる丁寧な語り口が印象に残った。
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潁川さんも旧制神戸商大(現神戸大)を卒業し、海軍に入った。戦後は大手ゼネコンに就職。生涯の伴侶と娘2人にめぐまれた。戦争は遠い日の出来事になりつつあった。
だが、島さんとの“再会”は突然訪れる。六甲山麓にある寺を訪れた84年のことだ。長女の夫の実家の墓参りをした帰途、墓地の突き当たりに「島」という1文字が見えた。
もしや。近づくと、墓石に島澄夫の名が刻まれていた。あのラジオの記憶が鮮やかによみがえった。
潁川さんの慰霊の旅が始まった。(森 信弘)
2020/8/1