住民の猛反発の中での都市計画決定から三年。復興土地区画整理事業でも市街地再開発事業でも、行政と住民がいくたびも交渉を重ねてきた。道路やビルなどの規模、配置について修正が加えられ「協働」の象徴とされた一方、対象区域の枠組みはついに変更されず、事業の受け入れをめぐり住民同士が対立することにもなった。合意形成は、行政と住民との間はもちろんだが、まず住民同士の間でも難しい。いずれの間の合意形成にも情報の共有が欠かせない。試行錯誤の三年間はこれからのまちづくりに生かされるのだろうか。事業が進んでも、対立がいえなければ本来の意味のまちづくりは実現しない。住民、行政それぞれの思いを聞いた。(長沼隆之、高田喜久子記者)
「常盤町二丁目の一部で仮換地の交渉に入りたい。まとまれば三月ごろに審議会に諮りたい」
神戸市長田、須磨区にまたがる鷹取東第二地区。今年一月、千歳地区連合まちづくり協議会の役員会で、市の担当者が復興土地区画整理事業の見通しについて話し始めた。
役員からは換地計画などに関して質問も繰り返され、市職員が答えた。決定事項だけでなく途中経過やめども語られた。
市が「見通し」まで説明したのは初めて。ささやかながら協議会の望んでいた情報開示が実現した。きっかけは昨年八月にさかのぼる。
住民集会で住民の不満が噴き出した。受け皿市営住宅は地区内に建つのか、規模はどうなるのか、関心は高かった。にもかかわらず住民が住宅の計画を知ったのは着工寸前だった。用地確保のため地主に協力を求めた役員もいた。
「再三あった交渉の場で何も聞けなかった。これが住民参加だなんて」
協議会長の鍋山嘉次さん(72)は「やり方を検討していただきたい」と迫った。
情報を早く伝達しようとする一月の経過報告はその成果だった。
区画整理事業などが都市計画決定された三年前、対立の構図は行政対住民だったが、数カ月を経て住民対住民にすり替わった。原因を「情報」とする声がある。
▼矛先
長田区の御菅東地区では区画整理の減歩率九%の是非をめぐり住民が対立した。納得できない住民グループの批判の矛先は、市よりもまず住民総会を開こうとしない地元まちづくり協議会の役員に向いた。
会長の山本勤さん(65)は混乱の原因を「住民間の情報量の差」と振り返る。情報の差は理解の差となった。例えば市が減歩率の緩和に応じるかどうか。山本さんは「行政は個々の住民ともっと接点を持って説明してほしかった」と話す。
昨春、協議会に反発していたグループのメンバー四人も協議会役員に就任し同じ席についた。そのメンバーの住民(54)は「以前は対話の場がなく、うわさが飛び交った。総会が年に三度になるなど、会合の場が増えたのは前進かな」と言う。住民自ら情報の共有を図ることが分裂を防いだかもしれない。
だが後遺症を指摘する人もいる。「自分の考えを言えば、また反対かと言われそう」
いま同地区の事業は着々と進んでいる。
▼対等
鷹取東第二の鍋山さんはこの三年を「行政との対等な関係の模索」と話す。
「都市計画決定から事業計画決定までの約二年間は闘争の色が濃かった。この一年間、対話を意識した」
協議会は福祉施設の建設も要望に掲げており、このためにも役員は地主を訪ね「市に売ってもらえないか」と頼んで回った。批判もあったが「地元も努力すべき」と考えてのことだった。昨年六月、土地は市に売却され、具体化に一歩近づいた。鍋山さんは言う。
「用地確保にかかわったことは、きっと強みになる。行政との協働の実践例にしたい」
▼協働
神戸市都市計画局の松下綽宏局長は三年間を「順調ではないが、着実に進んできた」と評価する。まちづくり協議会の早期設立、現地相談所設置、コンサルタント派遣・を三点セットとして事業を進めた。
「こう決まりました、と結論だけ言うやり方ではまずうまくいかない。行政が協議会、コンサルタントと一緒にまちづくりの絵を描いた。それが協働の精神」
一方、復興まちづくりの過程を記録映像として撮り続ける映画監督の青池憲司さんは、震災体験が行政を変えるだろうと期待する。ただしこんな苦言も。「住民参加と言っている間は実は行政主体のまちづくりではないか。行政参加と言える住民主体のまちづくりを探ってほしい」
▼森南地区/感情にしこり…課題重く/事業本格化も道半ば
「事業終了後も同じ町に住むわけだが、感情のしこりはまだ残っている」
まちづくり協議会が三分裂するなど苦難の歩みを重ねてきた神戸市東灘区の森南地区。区画整理の導入を決めた都市計画決定から三年を迎えた今も、協議会の役員からはこんな声が漏れる。行政はどう受け止めているのか。
「いかに同じ土俵に立って協議をするか。行政も思いは同じだった」
市の西尾力・森南地区調整担当課長は、三年間を、九六年末の協議会分裂を境に二つの時期に分けて考えたいと言う。
地区内を十七メートル道路が貫き、JR甲南山手駅前広場新設など街並みを一変させる内容に住民は猛反発、独自の対案を出した。
市は九五年末、十七メートル道路を棚上げし、九六年五月には最大減歩率二・五%とする修正案を示した。
市との一致点を探るか、あくまで事業の白紙撤回を求めるか・。協議方針をめぐり、住民の意向は割れた。九六年末、まちづくり協議会は分裂。まず一丁目が独立、三丁目が続いた。
西尾課長は分裂の動きを「好ましくはないが、やむを得なかった」とした上で「分裂後はそれぞれの地域特性に応じ協議が進んだ。その中で住民が主体的にまちづくりに携わる動きも出てきた」とも言う。
九七年五月、まず一丁目が都市計画決定変更、十七メートル道路計画が消えた。三丁目も住民案をまとめ、市に提出。ところが三丁目の隣の本山中町一丁目の先行整備を求める要望書が、既存の協議会から市に出された。
要望書を受け、市は協議会が異なる二つのブロックの同時整備のため「森南第二地区」として都市計画変更。事業が動き出す一方、双方の協議会の間には感情的なしこりが生じた。そして十七メートル道路計画は現在、二丁目にだけ残る。
三月五日、第二地区の事業計画が決まった。二十日の起工式を前に、三丁目と既存の協議会の代表者がこのほど、市の仲介で初めて会った。
三丁目の佐藤一美会長(74)は「わだかまりを捨て、今後は中町と話し合いを続けることで一致した」と言う。
「まちづくりという目的は同じ。区画整理審議会は一つだし情報交換を進め、(交渉の)窓口もいずれ一つになれば」と、西尾課長は期待する。
二丁目と中町側の協議会は、事業の進展状況が異なることから、委員会をブロック別に設け、個別で協議することにした。
二丁目への今後の対応について西尾課長は言う。
「あくまで合意に基づいてやる。合意形成への作業は丁寧に行いたい」
決定から三年を経て、事業が本格化しつつある森南地区。住民には安どの表情も浮かぶが、それを手放しで喜べない状況は変わっていない。
<森南地区まちづくりの歩み> | |
1995年 | |
1・17 | 阪神・淡路大震災 |
2・ 1 | 建築基準法第84条による建築制限地域に指定 |
2・22 | 神戸市が森公園に現地相談所開設。 「森南地区のまちづくり 案」を提示 |
2・24 | 「森南町・本山中町まちづくり協議会」を結成 |
2・28 | 住民2080人の署名を付け、市へ都市計画案の見直し求め陳情書提出。計画案の縦覧開始 |
3・ 9 | 協議会、地区内外28200人の署名を付け、意見書を市に提出 |
3・14 | 市都市計画審議会。住民5人が意見陳述。 付帯条件付きで原案通り可決 |
3・17 | 都市計画決定 |
4・28 | 初の住民意識調査を実施 |
8・24 | 「復興まちづくり憲章」など住民案を市に提出 |
12・ 2 | 市、地元要望を受け都市計画決定の修正案提示。 17メートル道路は棚上げに |
1996年 | |
5・18 | 市、減歩率最大2.5%とする協議案提示 |
6・12 | 市の修正案に関する住民意識調査を実施 |
7・ 1 | 意識調査の回収方法に批判が出、取り直しを決定 |
9・22 | 取り直した意識調査の結果発表。 市と協議継続へ。協議会会長が辞任。 |
12・ 8 | 「森南町1丁目まちづくり協議会」が設立総会 |
1997年 | |
1・19 | 「森南町3丁目まちづくり協議会」が設立総会 |
3・ 9 | 1丁目まち協が臨時住民総会で住民案を承認 |
5・26 | 1丁目まち協が住民総会でコミュニティー道路、公園に関する第2次まちづくり提案を承認 |
5・30 | 県都計審が1丁目の都市計画決定変更案を承認。 17メートル道路の廃止が決定 |
9・ 1 | 3丁目まち協が臨時住民集会で住民案を承認 |
9・25 | 市、1丁目を事業計画決定。翌日起工式 |
10・ 1 | 森南町・本山中町まち協が本山中町1丁目の先行整備を求め市に要望書提出 |
11・27 | 県都計審、3丁目と本山中町1丁目の都市計画決定変更案承認。 17メートル道路の廃止が決定 |
12・16 | 森南町・本山中町まち協が意識調査の結果を発表。 区画整理への評価依然分かれる |
1998年 | |
2・26 | 県都計審、3丁目と本山中町1丁目の事業計画案を承認 |
2・27 | 1丁目で初の仮換地指定(現地換地分) |