阪神・淡路大震災から十七日で五年半。まちの復興の切り札として、被災地に導入された土地区画整理事業は全十八地区(二百五十四ヘクタール)で着工し、仮換地指定率も全体の六三%まで進んだ。道路や公園などハードの整備が着々と進み、住宅再建も本格化する一方で、長期化する事業の行く末に不安やいらだちを隠せない住民も多い。阪神間を中心に、正念場を迎えている復興区画整理事業の現状と課題を探った。
尼崎市築地地区 若者離れ懸念も
車の流れが途切れることはない阪神高速神戸線と国道43号、そして運河、工場に囲まれた尼崎市築地地区(一三・七ヘクタール)。運河の北側には真新しい高層住宅が建ち、道路も整備されている。だが南側の路地に入ると、土ぼこりが舞い、今も傾いたままの家屋が残る。
「母屋は全壊してしまったが、貸していた長屋は何とか残った」
築地北浜一で被災した安川太一さん(69)が言う。
震災当時、約千五十世帯、約二千四百人が暮らしていたが、液状化で全半壊を含め約八割の建物が傾斜や沈下の被害を受けた。現在、九割弱が地域に残るが、復興事業の進展を待ちながら約二百世帯が事業用仮設住宅での暮らしを続ける。
江戸時代、尼崎城の南側の中州を埋め立てて造られた城下町・築地。碁盤の目状の狭い路地に古い町家や文化住宅が残るなど、“庶民の町”のたたずまいを残していた。
南の工場群と北の道路に挟まれ、大気汚染に苦しむ人は少なくない。それでも安川さんは「秋祭りにはだんじりの勇壮な山合わせがあり、下町の人情が受け継がれている」と胸を張る。
それは、復興への熱意にも反映されている。
住民らでつくる築地地区復興委員会の会合は、これまで三百回近く開かれた。安川さんは委員長として、避難先の市北部の借家から通い続けた。
復興事業は、土地区画整理事業と住宅地区改良事業を併用した手法で、被災地では唯一の採用だった。老朽化した長屋などを市が買い上げ、改良住宅の用地を確保。地主・家主が売却に応じれば、借地・借家人の全員が改良住宅に入居でき、以前の町で暮らすことができるのがメリットだ。
区画整理では、改良住宅用地の減歩率を上げることで、一般宅地の減歩率を緩和する。市築地土地区画整理事務所事業担当の藤川武課長は「借家人が多く、元の町に住んでもらう方法としては良い選択だった」と話す。
仮換地指定率は六五%。復興委のコンサルタント山口憲二さん(52)は「土地を売却して町から出たのは若い世代が多かった。活力が失われないか心配だ」と指摘する。
改良住宅の建設が進んでいるのに対し、民間住宅の再建は遅れがち。入居ペースのずれによって「地域の結びつきに影響が出ないとは言い切れない」と心配する声もある。
安川さんは震災五年半でようやく元の場所で自宅を再建できた。二十五日に仮住まいから引っ越しする。「みんなが住み慣れた町に帰ってこそ、活気を取り戻せる。まだまだ頑張らんと」と気を引き締めた。(安原 秀典)
芦屋西部、同中央地区
整地を終えた広大な区画と、震災後とそう変わらない状態で雑草が茂る空き地の同居が、芦屋西部地区の五年半を雄弁に物語る。
芦屋市清水町、前田町、津知町と川西町(一部)からなる同地区。国道2号を挟んで北が第一(一〇・三ヘクタール)、南が第二地区(一〇・七ヘクタール)に分かれて事業が進む。
震災で壊滅的な被害を受けた。住民側は当初、九五年三月十七日の都市計画決定に猛反発、提訴の構えも見せた。住民組織「芦屋西部地区まち再興協議会」(稲本実会長)の設立は、都市計画決定から一年後だった。
同協議会は九七年八月、住民投票で「まち再興計画」案を決定。市道清水線を幅十七メートルから十二・十三メートルに変更▽同駅前広場線など十一路線を幅六メートル、八メートルのいずれかに拡幅、新設する▽津知公園を三千平方メートルから三千五百平方メートルに拡張▽前田町に二千平方メートル、清水町に千平方メートルの公園を追加・という内容だった。芦屋市は、この案に基づき都市計画を変更、九八年に事業計画決定した。
都市基盤整備公団が施行する第一地区の仮換地指定率は六〇%。芦屋市が手がける第二地区は同三九%。第一では年内に、第二も今年度中には、受け皿住宅が完成する。
事業の長期化に伴い、住民からはいら立ちも。行政に対し、事業の見通しを示すよう求める声も強い。
街並み保全へ、地区計画などルールづくりも今後の課題だ。芦屋市は住民間の意見調整に果たす同協議会の役割に期待し、協議会は行政の一層の指導力を求めている。
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芦屋中央地区(一三・四ヘクタール)では今年六月、事業終了まで約二年を残し、「役割を終えた」と街づくり協議会が解散した。仮換地指定率は七〇%。だが仮換地処分の取り消しを求め、施行者の都市基盤整備公団を相手に係争中の住民や、移転を拒否している地権者への強制移転通知問題などの懸案を今も抱えている。(長沼 隆之)
2000/7/17