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#あちこちのすずさん

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電話交換手時代に遭った、明石市の空襲の様子などを語る炭谷光世さん=明石市(撮影・斎藤雅志)
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電話交換手時代に遭った、明石市の空襲の様子などを語る炭谷光世さん=明石市(撮影・斎藤雅志)

 神戸新聞がNHKやネットメディア、全国の地方紙と連携し、「#あちこちのすずさん」と題してネットで募った、戦時中の暮らしにまつわるエピソードを随時紹介していきます。

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 戦時中、“通信戦士”と呼ばれた女性たちがいた。

 電話局で電話線を繋ぐ「電話交換手」。数カ月の訓練を受け、難しい試験に通った人だけが就ける狭き門だった。当時、女性にとって花形職業の一つとされていた。

 現在ではなじみの薄い仕事だが、回線同士を繋ぐ交換機が機械化されるまで、電話をかけた人とかけたい相手を繋ぐのは交換手による手作業だった。

 交換手の担い手は10~20代が中心。24時間態勢で、早朝や日勤、宿直と、交代で勤務した。

 情報をいち早く伝える重要な手段だった電話通信。警戒警報や空襲警報が発令されても、彼女たちは通信を守り続けた。「軍からの連絡が入っています」「○○地区に爆弾が落ちました」-。交換台を離れることは許されていなかったという。

 そのため、殉職した交換手が全国各地にいる。

 「命懸けの仕事だったけど、中身はみんな普通の女の子だった」

 兵庫県明石市の電話局で電話交換手をしていた炭谷光世さん(93)が振り返る。

 弟1人、妹7人の8人兄弟。家計を助けようと、14、15歳で交換手に就いた。

 当時、交換手たちが“制服”として着ていたのが、白色の着物と黒色のはかま。就職が決まると、母親が同県三木市の呉服店からわざわざ生地を取り寄せて袴を縫ってくれた。電話局までの徒歩10分の距離を、毎日はかま姿で歩くのが誇らしかったという。

 局では最年長の班長を筆頭に10人でチームを組み、3人一組で業務に当たった。自分の担当の台に電話がかかると、まず発信者から呼び出したい番号を聞く。交換機にある発信者と相手先の回線を接続し、相手先に「○番ですか?」と確認してから「どうぞお話ください」と繋いだ。

 休憩中は先輩たちにお茶やお花、裁縫などを教えてもらうことも。髪が乱れていたら、三つ編みをしてくれる仲間もいた。好きな男性の写真をお互いに見せ合い、“恋バナ”(恋話)でも盛り上がった。

 「仕事中は厳しいお姉さんたちも、休憩中は友達のように接してくれてね」

 戦況の悪化に伴い、“制服”は防空ずきんともんぺに変わった。それでも、もんぺをいかにすっきり見せるか、みんなで着方を工夫したという。

 「女性ばっかりの職場やったからね。なんぼ戦争中言うても、どこかでおしゃれしてた」

 炭谷さんは今もおしゃれが大好き。お気に入りのスカーフと花柄の洋服で取材に応じてくれた。毎日部屋には花を飾る。「あの頃できなかったから」

 最後に見せてくれたのは、一枚の白黒写真。若い女性10人が着物姿でほほえんでいる。組が編成された記念に撮影された。

 「この頃はもう、おしろいも紅も付けられんかったから、全員すっぴん。でも、みんなかれんでしょう?ふふふ」。写真と同じ乙女の顔でほほえんだ。(末永陽子)

2020/8/3
 

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