#あちこちのすずさん
太平洋戦争中、戦地で激戦が続く一方、国内では政府が統制を強め、国民の多くが戦争を熱狂的に支持する異常な社会を懸命に生き抜いた人たちがいました。戦時中の日常を描いた映画「この世界の片隅に」の主人公にちなみ、神戸新聞は今年も、NHKや全国の地方紙と連携し「♯あちこちのすずさん」と題してエピソードを募集しました。寄せられた体験を随時、紹介します。
4歳だった。上村孝子さん(80)=兵庫県西宮市=は二つの空襲を経験した。
1945年3月。何機ものB29爆撃機が神戸の空に飛来した。当時、神戸市灘区に住んでいた。家の前の土手に作った防空壕(ごう)に家族で逃げた。すごい形相で飛び込んできた親子がいた。
どれくらいたったろう。
外へ出ると、家は五右衛門風呂と門柱だけになっていた。あちこちから煙があがり、景色が真っ黒に見えた。
◆
6人きょうだいの次女。父は兵庫県の職員で、神戸にあった県の公舎と、西宮にあった母の実家を行き来する生活だった。
いつも空腹だった。母は、みなが平等におやつを食べられるよう、珍しく手に入ったようかんをものさしではかって切り分けた。そのおいしさを忘れない。
神戸の家が焼け、家族は西宮に移った。その約3カ月後、また空襲に遭った。
真っ青な空が印象的な日だった。栄養失調によるできものが42個も体にでき、自宅の縁側で包帯を取り換えていたとき、松の木の間からB29が見えた。
「あかん、来た」。空から焼夷(しょうい)弾がいくつも降ってくる。「危ない。山の方へ逃げるで」。祖母に言われ、夢中で走った。
「お母ちゃん、私死ぬの?」。走りながら、何度も母に聞いた。もうだめかも、と幼いながらに思った。
一緒に逃げた姉は、気づけば草履が脱げていた。姉は、家で飼っていたニワトリが丸焦げになっているのを見て、今でも鶏肉を食べられない。
◆
2度の空襲を経て、終戦。再び神戸に戻った。
中学生になるまでは飛行機の音が怖く、耳をふさいだ。恐怖体験の記憶はずっと残った。
小学校の同級生に顔をひどくやけどした女の子がいた。「空襲のせいかな…」。声かけをしようとしたが、ためらった。差別はだめと分かっていたが、勇気が出なかった。周囲になじめずにいた女の子を今でも思い出す。
自分は運が良く、無事だった。でも、私も女の子のようにやけどをしていたかもしれない。「なぜ、声をかけてあげられなかったんやろ」。後悔の念は消えない。
◆
戦後、弟はジフテリアにかかり亡くなった。祖父も続けて世を去った。真夏の暑い日、2人のお墓参りをした。
青々しい草の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「あぁ。戦争は終わったんだ」。開放感が全身に広がった。今でも草の匂いを嗅ぐと、あの日に戻る。
終戦間際に出征した父は、一言も戦争について語らなかった。聞きたかったが、聞き出す勇気がなかった。人々が国のために戦い、懸命に生きたあの時代。上村さんは「平和な今がどれだけ幸せか、語り伝えたい」と言葉を結んだ。
(浮田志保)
2021/8/12-
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