高速道路に新幹線、私鉄、在来線-。阪神・淡路大震災では、兵庫県の六甲山系南側にある都市交通網がことごとく破壊された。復旧に人々が立ち上がる中、被災地に入ったり、西日本から東に向かったりする人々の結節点となったのが「三田駅」(同県三田市)だった。神姫バスは山陽新幹線の代替として姫路を結び、神戸電鉄は大阪方面から神戸に入る最速ルートとして重宝された。人々の命と暮らしをつないだ迂回(うかい)路の実態を、最前線で奮闘した両社の関係者に聞いた。
「大阪へ一番早く行けます」。手書きの看板が遠慮がちに置かれていた。
阪神・淡路大震災から10日ほどたった姫路駅前のバスターミナル。三田駅への直行バス乗り場には、長蛇の列ができた。
震災で不通となった大動脈・山陽新幹線の代替ルートとして、神姫バスが運行を始めていた。三田でJR宝塚線に接続し、大阪まで約2時間。今でも姫路-大阪間は新快速で1時間強かかる。確かに「早く行ける」迂回(うかい)路だった。
この路線開設に携わったのが、同社専務の丸山明則さん(62)だ。当時は姫路の本社で、路線バスの企画立案や国への申請を担う乗合部業務課の係長だった。
「被災した社員もいる中、とにかく総出で代替バスを動かしました」。三田行きだけでなく、線路が寸断されたJR神戸線の代替輸送も担っていた。
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丸山さんは震災の朝、午前9時前に本社に入った。たどり着けた社員はわずか。公衆電話で県内各地の営業所から情報収集した。
被災状況が分かると程なく、国やJRから「姫路と新大阪をバスで結んでほしい」と要請された。路線新設には国の認可がいる。すぐに経路を決めて申請した。震災10日後の27日、中国自動車道の復旧に合わせて姫路-新大阪線ができた。
「ところが大渋滞に阻まれてたどり着けなかったのです。早朝に出発した始発便が途中で引き返し、姫路に着いた頃には日付が変わっていました」
報告を受け、27日昼ごろから善後策を練った。「ここは通れない」「こっちは渋滞がひどい」。地図上で数々のルートを検討した。姫路から中国道で東に向かい、三田西インターチェンジ経由で駅に向かうルートを、何とかひねり出した。
認可には時間がかかるものだが、この時ばかりは違った。「メモに手書きした素案をファクスで送ったら、すぐに認可されました」
翌日から姫路-三田線の運行が始まった。運転手は路線の下見ができず、地図を頼りに初めての道を進んだ。丸山さんは「通常はあり得ないが、頑張ってもらった。幸い渋滞は三田まで伸びず、結果的に最速ルートになった」と振り返る。
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三田駅前でも連日、姫路行きを待つ行列ができた。丸山さんも5日ほど応援で三田に入り、乗客を誘導して運転手に弁当を届けた。
当時の三田は、人口増加率の全国トップを継続中。ニュータウンの路線バス運行本数は増え続けていた。非常時でも通常ダイヤは崩せない。
「各地の営業所から予備車両をかき集めました。時間がないので運転手は車内で弁当を食べ、悪路で傷んだ車体は整備士が一晩で直してくれた」と丸山さん。現場からは「働かせ過ぎや」との声も上がったが、労働組合とは「今は非常時」との認識で一致できた。
社史によると、1月28日~3月31日に1630台を走らせ、6万8560人を運んだ。乗客の思いや行動を三田の地がつないだ。(高見雄樹)
