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九鬼隆一氏(三田ふるさと学習館提供)
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九鬼隆一氏(三田ふるさと学習館提供)

 新型コロナウイルスの終息の目途がたたない今、過去を振り返ってみようと思って調べてみました。

 江戸期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって破壊された文化遺産の調査が、その後、始まりました。1897年、古社寺保存法により「組織体」ではなく、古社寺が所有する「文化財」が保護対象になりました。これにより、保護対象として「風致」や「旧跡」の概念が芽生え、保存すべきものの意味を込めた「名勝」という言葉が生まれました。

 その古社寺保存法の制定に尽力したのが、兵庫県・三田出身で帝国博物館(現・国立博物館)の初代総長を務めるなど、美術行政をリードした九鬼隆一氏です。1902年6月、同博物館を依願退職した九鬼氏を初代会長に、「有馬保勝会」が誕生しました。有馬温泉場付近の名勝旧跡を保存し、遊園を開くほか、社交場を建設し、人智(じんち)の啓発と浴客の娯楽を図ることを目的としていました。

 愛宕山周辺の神社の境内を整備し、妙見寺の参道に地蔵を置き、社交場を建設しました。それらの資金は有馬に別荘を持つ財界人の寄付で賄われていました。

 第2次世界大戦終戦後の物資不足で物価が高騰し、ハイパーインフレ対策として46年に新円切り替えが行われました。観光業の銀行の融資順位は1番最後で、有馬温泉は銀行からお金を借りられない状態でした。

 当然、町は困窮していました。それもあって有馬町は47年に神戸市に編入されました。旅館は個人企業で神戸市としては支援しにくい。そこで神戸市長の助言で、下呂温泉(岐阜県)や熱海温泉(静岡県)に負けないよう、有馬温泉観光協会を設立したのです。

 まず「有馬の街が暗いから街灯をつくろう!」と街灯を設置する事業を始めました。資金は必要になるごとに会員などから集め、昭和25年(1950年)には、25の街灯ができました。

 旅館組合の中に宣伝部があり、芸者を連れて名古屋や京都に宣伝し、集客に努めました。観光協会の発起人たちは、町の人間一人一人が有馬温泉のセールスマンであるべきという考えのもと、市や県に陳情し、地元負担といわれた時は、旅館組合はむろんのこと全町民から必要な活動資金を集めたといいます。

 例えば有馬の街を整備する際に建物の角を切る必要がでてきても、所有者が神戸市の提示額に納得しない。そんな時は、所有者が希望する額と市が出す額の差額を観光協会が別途集めたといいます。そうして現在のロープウエーの回遊道路もできあがったそうです。しかし当時、地元住民の観光協会への関心は高くありませんでした。戦争に負け、食べるのにみな一生懸命だったからです。

 あらためて昔の資料を見てみますと、コロナ終息後、何をすべきかが見えてきたように思います。有馬保勝会の趣旨の環境整備は、神戸市のふるさと納税の観光地支援事業の対象に有馬温泉が選ばれたことで、実現できるようになりました。終息後は、地域の一人一人が有馬温泉の復興を担っていくべきだと思います。どうぞご支援ください。(有馬温泉観光協会)

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